第70話:人生最良の承認は最悪の瞬間になってしまった
社交界の当日、私は正直なところ、この場に出席したことを激しく後悔していた。
学園からセレスティーナと一緒に会場入りしたこともあって、想像以上に多くの貴族たちから次々と声をかけられたのだ。
会場入りしてからというもの、私は貴族たちから次々と声をかけられ続けていた。
家庭教師の依頼、研究員への誘い、子弟の進学相談。どれもありがたい話なのだろうが、人の顔と名前を一致させるだけで精一杯の私には、正直かなり荷が重かった。
それでも私の視線は、気づけば何度も入口の方へ彷徨ってしまう。
フィリアは、まだ来ないのだろうか。
傍から見たら、さぞかし挙動不審で落ち着きのない男に映っていることだろう。遠くの方で、大勢の大人たちを相手に堂々と完璧な挨拶をこなしている平民出身のはずのセレスティーナ。
なによりも、コーデリアたちローゼンベルク大公家の姉弟の姿を眺め、さすがは本物の貴族だと感心した。彼らは一体、どこでそれほどの社交性を身につけるのだろうか。
そんな劣等感に近い感情を抱いていると、やがてフットマンの朗々とした声が広い会場全体に響き渡った。
「王太子ジュリアン殿下、ならびに聖女フィリア嬢とその御父母様、ご入場です」
一瞬にして水を打ったように静まり返った会場に、次の瞬間、盛大な拍手が沸き起こった。
ジュリアン王子にエスコートされ、手を取られながらも、少し猫背でこじんまりと縮こまっているフィリア。彼女は、見違えるほど綺麗な青いドレスに身を包んでいた。その後ろを、少し背の低い生真面目そうな男性と、品のある綺麗な淑女が従うように歩いてくる。フィリアのご両親なのだと、すぐに分かった。
しかし、その歓迎の拍手の渦中、フィリアは入室するなり即座に私の姿を見つけ出した。そして、途端に周囲の目を無視してこちらに向かって真っ直ぐに駆け出してきたのだ。
「フィリアッ! どこへ行くのです、待ちなさい!」
母親の鋭い叱責の声が響き渡る。それをきっかけに、会場の拍手はみるみるうちにまばらになり、やがて完全に止まって、重苦しい静寂がホールを支配した。
焦るあまりドレスの裾を踏んでしまい、フィリアは皆の目の前で盛大に転倒した。社交界に参加した数百人の貴族たちの冷ややかな視線が、一斉にフィリアへと集まる。
「フィリアッ! 戻りなさい!」
母親が顔を青くして急いで駆け寄ろうとしたが、フィリアはすぐに立ち上がると、再び物凄い勢いで私に向かって走り込んできた。そして、私の背中へとさっと隠れ、私のスーツの上着の裾を両手でぎゅっと強く掴んできた。
静寂の中、群衆の容赦のない視線が私とフィリアに集中する。これ以上ないほどに気まずい空気だったが、それでも、大好きな女の子が、周囲のすべてを投げ打って真っ直ぐに私のもとへと来てくれたことに、私は激しい喜びと安堵を感じ、彼女の繋がれた手の温もりに救われていた。
「フィリア、あなたは一体何をしているのですッ! 早く戻りなさい!」
お母さんが私の横に回り込み、フィリアの細い腕を強引に掴んで引っ張ろうとする。
「嫌だ、私は先生といる。離して」
突如として始まった高貴な社交界の場での、それも私のすぐそばで交わされる剥き出しの親子喧嘩の声は、遮るもののないホール全体にひどく不名誉な形で響き渡った。
「フィリア、それにカナリアも、いい加減にしなさい。……こちらにいらっしゃった皆様には、大変見苦しいものをお見せいたしました。我が家の不徳、大変申し訳ありませんでした」
フィリアのお父さんが一歩前に出て、周囲の貴族たちに向けて深々と頭を下げた。
そこへ、騒ぎを静めるようにジュリアン王子がよく通る声を重ねた。
「大聖女フィリア・レオンハルトは、少々人見知りが激しく、変わったところがあります。しかし、それでもこの国に大いなる恵みをもたらす、極めて素晴らしい才覚を持った女性です。本日ご臨席の皆様におかれましては、どうか彼女の多少の不作法には目を瞑っていただき、聖女とこの国の未来に、温かい祝福を頂けることを切に願います」
王子が至極紳士的に頭を下げると、張り詰めていた会場からは、救われたように再び大きな拍手が溢れ出した。さすがの対応力だと言わざるを得ない。
「貴方が、エリアス先生ですか。フィリアをここまで育てていただき、誠にありがとうございます。父親のジョセフ・レオンハルトです」
「初めまして、エリアス・ヴァン・アリスです」
私は差し出された手を握り、挨拶を交わした。フィリアのお父さんの目には、一人の父親としての深い困惑と疲れの表情が見て取れた。
「本当に娘が皆様にご迷惑をおかけして申し訳ない。先生からも、どうか、フィリアに元の場所へ戻るように言って聞かせてあげてください」
「あー……はい。ええと、フィリア……」
私が背後に声をかけると、彼女はさらに私の背中へと深く隠れ、その小さな身体を強張らせてがたがたと震わせてしまった。これ以上追い詰めるのは逆効果だと、本能的に理解する。
そんな私たちのもとへジュリアン王子がそっと近づき、周囲に聞こえないようなごく小さな声で、フィリアの耳元へと優しく囁いた。
「後で、エリアス先生と二人きりになれる時間を必ず作ってあげますから。だから今は、少しだけ我慢をしてください。……先生も、その後でお時間は大丈夫ですね?」
「あ……ええ、はい。大丈夫です。フィリア、今は王子と一緒にいてあげてほしい」
私の背中に顔を埋めたまま、フィリアは消え入りそうな声で呟いた。
「……約束ですよ……。それに、ちゃんと我慢したご褒美も……後で私にください……」
「分かりました。約束します」
その言葉でようやく納得したのか、フィリアは私の服から手を離し、母親の手によって元の場所へと引き連れられていった。去り際に見せた彼女の横顔は、とても寂しそうで、ひどく怯えて震えていた。その姿に、私の胸は激しく痛んだ。
「改めて、皆様。この度お集まりいただいたのは、大聖女フィリアを育て上げたレオンハルト家をお招きし、皆様との社交の場を持ってもらうためのものです。また、内々ではありますが、大聖女フィリアには将来、私の正妃となってこの国を共に支えてもらうつもりでおります」
王子のその堂々たる宣言に、会場からは一斉に大きな歓声と拍手が沸き起こった。
「レオンハルト家には、私と聖女フィリアとの婚約が正式に締結された際、その多大なる功績を讃え、国王陛下より『侯爵』の地位が授与されることも内定しております」
フィリアの両親が誇らしげに、そして深々と頭を下げ、二人は割れんばかりの称賛に包まれた。
「そして、もう一人。その聖女フィリアの非凡な才能を見抜き、開花させ、この国に奇跡の力を与えてくれた偉大なる聖職者――神聖学教師のエリアス・ヴァン・アリスにも、その知性と栄誉を讃え、王家より『伯爵』への叙任が内定しております」
あまりにも寝耳に水の言葉だった。
会場にいる全員の視線が、一斉に私へと突き刺さる。そして、地鳴りのような拍手と称賛が、私の頭上へと容赦なく浴びせられた。
私が、伯爵に叙任される。一体何の冗談だ。大勢の貴族たちからの羨望の眼差しと拍手を前に、私はただ、激しい戸惑いを隠せずに立ち尽くすしかなかった。
他者から称賛され、隠された功績を認められ、社会的な最高の地位を得る。
何者かになりたくても決して何者にもなれず、部屋の片隅で引きこもっていた前世の自分からすれば、これは間違いなく、人生で最良の、最も輝かしい瞬間であるはずだった。
しかし――この身に余る名誉を受け取ることに対して、私の胸の奥は、異様なまでの拒否感と嫌悪感で満たされていた。
この名誉を受け入れてしまえば、私は社会的にも完全に「大聖女、王太子妃の恩師」として固定される。
その瞬間、私とフィリアの人生は、二度と交わらないものにされてしまうのではないか。
遠くの方から、フィリアはどこか引きつった、今にも泣き出しそうな笑顔で私を見つめていた。その金色の瞳は、ひどく悲しそうに揺れている。
そして、人混みの隙間からちらりと見えたセレスティーナの視線は、「貴方は本当に、それで満足して終わるつもりなの? あの子を連れて、今すぐここから逃げ出さなくていいの?」と、私の腑抜けた理性を激しく問い詰めているかのような、鋭く冷徹な光を放っているように見えてしまった。




