第6話:週末にお出かけをすることになってしまった
夏休みが終わり、新学期が始まって数週間が経った。
騒がしかった蝉の声も消え、放課後の静寂が少しずつ戻り始めている。
週に何度かフィリアに数学を教えているが、その吸収力には目を見張るものがあった。最初は中学レベルの初等数学から始めたのに、文字式や一次関数を教えた翌日には、自力で二次関数や三次関数にまで拡張し、その解釈が正しいか確認しに来るのだ。
意地悪のつもりで大学数学の集合論やコーシー列をぶつけてみても、彼女は平然と食らいついてくる。むしろ私の知識の穴を指摘される始末で、わずか二週間で馬脚を露わにしてしまった。「打てば響く」とはまさにこのことだ。もっとも当の本人は、質問に満足するとニヤリと笑って私の「におい」を嗅いでくるというおまけ付きだが。
あまりに離れてくれず、本職の神聖学の授業準備まで削られる事態になったので、数学の時間は火曜と金曜の二回に限定することにした。その時の彼女のしょげた顔といったら、見ているこちらの胸が痛むほどだった。
そんな、数学を教える金曜日の放課後。
駆けてきたフィリアがお湯を沸かそうとコンロに向かい、ふと「あっ」と声を上げた。
「お茶っ葉、切らしてたんだ……うぅ……」
その声を聞いた瞬間、私の心臓がドクンと跳ねた。
この三ヶ月間、私は一度も茶葉を補充した記憶がない。前任者が残した茶葉がこれほど持つはずもない。導き出される答えは一つ――中等部一年生のフィリアが、自費で買った茶葉を持ち込み、私に分け与えてくれていたのだ。
「……フィリア。もしかして、今までお茶っ葉はずっと君が買ってくれていたのかい?」
問いかけると、フィリアはキョトンとした顔をした。
「はい。そうですけど、何か?」
「はぁ……本当に、本当にごめん!」
私が深々と頭を下げると、彼女はますます不思議そうに首を傾げた。
「なんで謝るんですか? 私が先生とお茶を飲みたくて、飲んで欲しくて持ってきたんです。何も問題ないと思いますけど」
こういうところは実にフィリアらしい。一本筋が通っているが、どこか世間一般の常識からは外れている。
「今度からは私が買うから。君はもう持ってきちゃ駄目だ」
「えっ、なんでですか?」
持ち込み禁止を告げると、フィリアは露骨に驚き、そして残念そうな表情を浮かべた。
「大人が中学生に奢られっぱなしというのは、流石に面目が立たないんだよ」
申し訳なさに顔を伏せて言うと、フィリアはクスクスと喉を鳴らした。
「そんなこと気にするなんて。やっぱりエリアス先生……その……可愛い、です」
そう言って、少し顔を赤らめて照れている。少女にお茶を貢がせていたことに気づかず、挙句「可愛い」と言われる自分とは一体……。せめて大人としての面目を、どこかで見せなければ。
「……えっと、じゃあ、ちゃんとお礼をさせてくれ。何か欲しいものや、食べたいものはあるかい?」
私の提案に、フィリアは真剣な表情で悩み始め、やがて悪戯っぽい笑みを浮かべて上目遣いにこちらを見た。
「じゃあ……その……明日。エリアス先生と、一緒に、お出かけ……したいです。そこで、えっと……美味しいもの、ごちそうしてください……ですっ!」
言い終えると同時に、彼女は視線を逸らして真っ赤な顔で俯いた。
その姿に、『大人に要望を伝えるのは勇気がいるよな』とつい共感してしまう。
「……ああ、分かった。じゃあ、明日。学校から一緒に行くと目立つから、噴水広場に十一時とか、どうかな?」
そう提案した瞬間、フィリアは目を丸くして喜んだのも束の間、急におどおどし始めた。
「えっと、明日、噴水広場、十一時……えっと、えっと……」
明らかに混乱している。
「予定、大丈夫かい?」
「大丈夫でしゅ!」
盛大に噛みながら身を乗り出し、今度は焦ったように足元をバタバタさせる。何かを閃いたように突如ソファの方へ駆け出した直後、ガツンと鈍い音が響いた。
「痛ったぁーっ……うぅ……!」
テーブルに膝を強打し、ケンケンしながら鞄を掴むフィリア。涙目でこちらをチラリと見ると、
「あ、明日の準備とかするので、今日はこれで失礼しましゅ……!」
またしても盛大に噛み、足を引きずりながら、嵐のような勢いで神聖学準備室を去っていった。
「……数学の授業はいいのかい?」
私の問いかけは、静かな部屋に虚しく響き渡るばかりだった。




