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第5話:数学を教えることになってしまった

いつも通り、放課後の神聖学準備室は穏やかな空気に包まれていた。

夏を迎え、開け放たれた窓からは吹奏楽部の音が、いつもより鮮明に響いてくる。

フィリアが用意してくれた雄猫のマグカップ。そこに注がれた、かすかに花の香りが漂う紅茶を一口すすり、私は机上の紙に目を落とした。


神聖学の授業にも慣れてきた近頃、私は前世で学んだ数学の体系を、備忘録として少しずつ書き連ねている。せっかく得た前世の記憶を失うのが怖かったし、前世では成し得なかった「何か」をこの世界で実現したいという、縋るような思いもあったのかもしれない。


確率空間の定義、ベルヌーイ試行と二項分布。ポアソン分布からランダムウォーク、そして中心極限定理を経て正規分布の導出へと至る。

線形代数に解析学――学生時代に夢中で書き写した知識の断片を、記憶の底から手繰り寄せていく。だが書き進めるほどに、それは教科書のような完成された体系からは遠ざかっていった。定義や定理の証明を厳密に再現できるものは少なく、記述はあちこちで途切れている。

この世界の図書館で調べても、数学書はせいぜい現代日本の高校生レベルか、それ以下。先人たちが積み上げた「叡智の結晶」を独力で再現することの困難さが、身に染みる。成績の良さに慢心していた自分が、いかに未熟で理解が浅かったかを突きつけられる思いだった。


ペンが止まり、頭を抱えるたび、フィリアの紅茶の温かさに救われる。そんなある日のことだ。

ふと気配を感じて振り返ると、フィリアが背後からノートを不思議そうに覗き込んでいた。


「それ……何をしているんですか? 最新の神聖学って、そんな不思議な記号を使うんですか? 何かの契約魔法か何か……?」


「えーっと、これは……」


私は言葉を詰まらせた。穴だらけのノートは、美しい公理系とは言い難く、論理の飛躍と結果だけが並んだ不格好な記述――先人たちの教科書の、精度の低いコピーに過ぎない。自らの不甲斐なさに心が沈む。だが、そんな葛藤など露知らず、フィリアは純粋な好奇心を瞳に宿してノートを見つめ続けていた。


「これ、なんて読むんですか? 『しん……っくす』?」


指差されたのはsin x(サインエックス)の記述だった。

そうか、この世界では関数という概念すら一般的ではないのだ。

コンプレックスに縛られ、難しく考えすぎていた自分が急に馬鹿らしくなった。


「そうだね……。三角関数とか、円関数とか。そういう言葉は聞いたことあるかな?」

「三角や円は分かりますけど、『かんすう』……? 何ですか、それ!」


未知の知識に期待で胸を膨らませる彼女の姿が眩しくて、ふっと心の重荷が軽くなった。これほど学ぶことに真摯な子なら、私の時間を割く価値は十分にある。もしかすると私以上に、この「数学」という道具を使いこなし、世界を良くしてくれるかもしれない。


「数学、一緒に勉強してみるかい?」

「エリアス先生が教えてくれるんですか? マンツーマンで!?」


フィリアの表情が、ぱぁっと花が咲いたように明るくなった。


「ああ。興味があるなら、だけどね」

「ありますっ! やりますっ!」


小さな体をぴょこぴょこ弾ませて喜ぶ彼女に、私は少しだけ意地悪な条件を付け加えた。


「ただし――一学期の期末試験で、また学年一位を取れたらね」


からかうつもりで言った言葉だったが、彼女の顔に不安の色はなかった。それどころか、その瞳にはかつてないほどの決意が宿る。


「絶対ですよ。一位を取ったら、二人きりで、ちゃんと教えてくださいねっ!」

「……本当に、大丈夫かい?」

「できるかできないかなんて関係ありません。やるんです」


そう言い切ると、彼女は急いで鞄から教科書を取り出した。ソファに座り、テーブルに広げたノートに猛然と向かうその後ろ姿を見て、私は静かに微笑み、自分の仕事へと戻るのだった。


――その二週間後の放課後。

突如バタンと勢い良く準備室の扉が開かれると、庭を駆け回る子犬のような少女が学年一位を取ったことを報告し、その大きな金色の瞳をキラキラと輝かせるのであった。

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