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第64話:葛藤を抱えるようになってしまった

「先生、おかえりなさい」

「あー、ただいま」

「授業、お疲れ様でした」


午後の最後の授業を終えて神聖学準備室に戻ると、読んでいた本からこちらに視線を移して、柔らかく「おかえりなさい」と迎えてくれるフィリアの姿があった。

たったそれだけの日常の光景が、どうしてこれほどまでに愛おしく、胸を白く満たしていくのか、自分でも本当によく分からない。


「今、コーヒーを淹れますね」

彼女はそう言うと、いつものように嬉しそうにコンロの方へと向かっていった。

授業で使った資料を執務机の上に片付けながら、私は改めて、半年ぶりに取り戻すことのできたフィリアとの自然な日常の彩りに、心から感謝していた。


「そうだ、先生。お昼ご飯をまだ食べていないと思って、授業の合間にサンドイッチを作って持ってきたんです」

ポットでお湯が沸くのを待つ間にも、私の机の上にお弁当箱が手際よく広げられていった。

一年の間、ずっとシンクの横に置き去りにされていたあの箱の中に、今は瑞々しいレタスとトマトのサラダが綺麗に詰められている。

「野菜、しっかり食べてくださいね。どうせ私がいない間、不健康な物ばかり食べていると思って、ちょっと野菜は多めにしておきましたから」

「ははは、ありがとう。とても助かるよ」


席に座り、お腹の虫を鳴らしながらサンドイッチを手に取ろうとしたとき、フィリアはすかさず私に鋭い釘を刺してきた。

「ダメです、先にサラダから食べてくださいね! そっちの方が、身体の健康にはいいらしいですから」

「あー……うん、わかったよ」


私はフォークを手に取り、レタスとトマトを一気に刺して口の中へと頬張った。

少し酸味の効いた特製のドレッシングが、しゃきしゃきとしたレタスの食感とうっすら絡み合い、疲れた身体に心地よく染み渡っていく。

「うん、美味しいな。ドレッシングの酸味がちょうどいい。ありがとう、フィリア」

「えへへ……。では、コーヒーを持ってきますね」


本当に嬉しそうに微笑んで、彼女はまたコンロのところへとぱたぱたと戻っていった。


一年前までは、この日常が当たり前だったのだと思うと、自分はなんて贅沢で幸福な日々を過ごしていたのかと、今さらながら強く気づかされる。

こうやって、誰かに「おかえりなさい」と言ってもらえること。

料理を作ってもらうのはもちろん嬉しいけれど、それをこうして、同じ空間で一緒に食べられるということ。

ゆっくりとコーヒーの湯気を眺めながら、静かで穏やかな時間を大好きな人と共有するということ。


フィリアはそれ以上は何も言わず、淹れたてのコーヒーを私の執務机の上に置くと、自分のソファへと戻って静かに読書を再開した。


窓から入り込んでくる、春の柔らかな温かい風。それに伴って徐々に大きくなっていく、放課後を迎えた学生たちの賑やかな喧騒。

どこか遠くの校舎から聞こえてくる、吹奏楽部の練習による不規則な楽器の音色。


もし、この人生をすべて賭けてでも守りたいものがあるとすれば、それは今、目の前にあるこの時間のことなのかもしれない。

かつては当たり前だった午後。

当たり前だった幸せ。

とりあえず、今はそのすべてを余さずに楽しもう。


フィリアは「これからもずっと一緒にいられる」と無邪気に笑っている。

しかし、もしかしたらもう明日には、聖女としてフィリアが社会に求められ、私のところにはいられなくなってしまうかもしれない。

だからこそ、この幸せな時間を、ほんの少しも零し落とさないように、一秒でも長く味わっていたいと、私は心の中で静かに願っていた。


下校時間を知らせるチャイムが鳴る少し前のこと。フィリアはソファから立ち上がると、またいつものように、部屋の掃除を始めてくれた。

「久々にお掃除したので、結構大変でしたよ。細かな隅っこのところに、いっぱい埃が溜まっていました」

「あー……。なかなか自分一人だと、掃除の類にまで手が回らなくてね。本当にありがとう」

「いいえ。このお部屋を使わせてもらっている、せめてものお礼ですから」


やがて、下校時刻の到来を知らせる長いチャイムの音が、夕暮れどきの学園内に響き渡った。

静まり返り、締め切られた空間に、二人だけの時間が流れる。


「ねえ、先生。……ちょっとだけ、お願いがあります」

「ん? 長居をしないならいいけれど。もう下校時間だからね」

「ほんの少しだけ……先生のことを、後ろからぎゅってさせてください。会えなかった分の、先生を補給するんです」


その言葉を耳にした瞬間、ふと、一年前の自分はこういうフィリアの甘えに対して、一体どのように接していたのだろうかと不思議な疑問が頭をよぎった。

後ろからぎゅっとさせてほしいと言われて、心臓を高鳴らせ、素直に「嬉しい」と思ってしまっている今の自分に比べて、一年前の私は、どうやってこの子に接してあげていたのだろう。

ただ無条件に甘やかしていたようにも思うし、ダメだと断って、ぷくっと頬を膨らませて拗ねるフィリアを不器用になだめていたようにも思う。


「……わかりました。今日だけですよ」


「――っ! 嬉しいです! それじゃあ先生、そこに立って、後ろを向いてください」

「はいはい」


私が椅子から立ち上がり、彼女に背を向けるようにして立つと――直後、背中の方から回された細い両腕が、私の胸からお腹のあたりにかけて、ぴったりと優しく巻き付いた。

そして、背中の真ん中より少し下あたりの位置に、こつん、と彼女の小さな頭が当たる心地よい感触。

しばらくの静寂の後、すー、はー、と、私の匂いを一生懸命に嗅いでいるような、そんな可愛らしい鼻息の音がすぐ近くで聞こえてきた。


「久々の先生……やっぱり、凄く嬉しいです」

「あれ? 私の記憶を見に部屋へ忍び込んだときは、もっと密着したって言っていませんでしたっけ?」

「……それは、その。あのときは先生が眠っていて意識がなかったわけですし……」

「私に、何か悪戯はしていませんよね?」

「していませ……っ、ちょっとしかしていません! 少しだけ、先生の胸をお借りして、大泣きしちゃったくらいです」

「本当にそれだけかい?」

「本当にそれだけです! ……だって、そういう特別なことは、先生が私のことを大人として、一人の女性として見てくれたときに……その、せ、先生の方から……私にして、ほしいですから」


そう口にすると、急に恥ずかしくなってしまったのか、背中から回された彼女の腕の力がぎゅっと強くなり、頭だけでなく、顔全体を私の背中に押し付けるような強い密着感が伝わってきた。

「……そっか。わかったよ」

「だから今日も……後ろから、なんですよ……」

「うん」


本当に、自分はこんなフィリアの純粋な好意に対して、今までどうやって対処していたのだろうか。

教師としての倫理を完全に越えて、「私はこの子が好きなのだ」という気持ちを自ら肯定してしまった今の私にとっては、欲望を耐えるだけで本当に限界だった。


もっとフィリアの身体に触れたい。

大好きなこの女の子の好意に真っ向から向き合って、正面からその小さな身体を受け止めたい。

力いっぱいその腕を抱きしめ返して、少し意地悪でもして困らせてやりたい。


そんな強烈な欲求のすべてに、私は必死の思いで重い蓋をしていた。

フィリアが私へと向けてくれる好意と依存が分離しきらない未熟な感情と、私自身の独占欲や欲望を重ねて利用するような真似は、絶対に、絶対にやってはならないと。

そう己を強く戒めるだけで、本当に、血を吐くほどに必死だったのだ。


恋心を自覚するということは、その分だけ、葛藤するということでもあるのだろうか。

この先、どうなるのかまったく分からない私たち二人の運命と、自分のどうしようもない欲望の狭間で、私の頭の中は完全にぐちゃぐちゃに掻き乱されていた。


胸の奥が痛くなるような、けれどどこまでも甘くて嬉しい、本当に久しぶりの放課後の時間だった。


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