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第59話:そして、ゲームシナリオが始まってしまった

「今日も、ゴミを捨てられたな」


私は壁のカレンダーの予定欄に、ペンで小さなチェックを入れた。何だかんだで、あの情けない自立計画の習慣を始めてから、もう半年近くの月日が流れている。

部屋の中はまだまだ完璧に綺麗とは言えないし、ソファのテーブルにはうっすらと埃も目立つ。シンクの食器だって……昨日の夜の分はまだ洗われていないままだ。

それでも、かつて洗濯物が富士山のように山積みになっていた頃の自堕落な生活に比べれば、小さくても確かな、いくらかの変化が私の日常には見え始めていた。


「こんな自分でも、少しはマシな何者かになれるのかな……」


私はカレンダーの下の棚にちょこんと佇んでいる、小さなクマのぬいぐるみの頭を、優しくぽんぽんと叩いた。

「私は、君の誇れるような、いい師匠でいてあげられているだろうか……」


このクマの本来の持ち主、フィリアとは昨年の秋に病院のベッドで言葉を交わしたきりだ。

世間では彼女のことを『白鹿の女神』とよく言ったもので、中等部時代に毎日顔を合わせていた私ですら、今となっては学内でその姿を見かけることすら叶わない。

彼女がいつも私の部屋に運んできてくれていた幸せも、今ではどこか遠い国へと行ってしまったかのようだった。


最近の噂では、彼女は従軍の神聖魔法使いとして何度も魔獣討伐のレイド作戦に参加し、戦場で文字通りの『女神の奇跡』を起こしている、なんて話題が私の耳にも届いている。

わずか十五歳という若さながら、凄まじい出世街道の極みだ。

高等部に進学したという話は聞いたが、籍だけで実際はほとんど授業に出られないのでは、みたいな噂も耳にした。


――あの子はもう、私のもとへ帰ってくることはないのだろう。

胸の奥に残る未練も、そろそろ一人の大人として、教師として、終わりにしなくてはならない。


春。新学期が始まった、その翌日。

前世の私がよく知る乙女ゲーム『聖女になりたいなんて誰が言った』において、私が『攻略対象の教員』として初めて画面に登場する、記念すべきその日。

エリアス・ヴァン・アリスとしての役割に従い、私が初めて本物の『聖女セレスティーナ』と出会う、運命の朝がやってきた。


私はこれからの新しい出会いに小さく胸を躍らせながらも、それでもなお、かつて私を世界で一番に慕ってくれた、あの大切な一番弟子との思い出を頭の中で思い返していた。


飲みかけの少し冷めたコーヒーを一気に胃の中へと流し込み、洗面所で綺麗に髭を剃り、いつもの見慣れたシャツを着て、私は男子寮の部屋を出た。

向かう先は、いつもの神聖学準備室。

まだ生徒の姿もまばらな春の朝、高等部の授業棟の二階。階段を上って奥にある講堂の一つ手前。見慣れたあの重い鉄の扉をくぐった先が、私の執務室だ。


鞄を執務机の横のフックに引っ掛け、まだ少し残っている眠気を覚ますために、コーヒーを淹れようとコンロの方へ向かう。

ふと、シンクの横の棚に目をやると、ずっとそこにある一つの『お弁当箱』が視界に入った。

夏休み前にフィリアに作ってもらって、私が自分で洗ったまま、ずっとそこに置き去りになったままの箱。もう、半年以上の月日が経っているというのに。

私はいつも愛用している雄猫のマグカップを手に取るが、そのすぐ横に鎮座している雌猫のマグカップもまた、もう半年以上、誰の手にも使われていない。


春。新学期。学園には花が咲き乱れる、とても気持ちのよい美しい一日。

いよいよゲームの本編シナリオが始まろうとしていても――私の世界から、フィリアという少女の残した痕跡はこれっぽっちも消えないし、消せそうにない。

「こんなゲームスタートで、本当に大丈夫なのだろうか……」

迫りくる運命の秒読みを前に、私は少しだけの言い知れぬ不安に胸を支配されていた。


今日の授業は、朝の十時三十分から。そこで、メインヒロインである聖女セレスティーナとの『公式な出会い』が予定されている。

淹れたてのコーヒーを片手に執務机へと移動し、私は本日の授業の準備を厳かに開始した。

やがて二時間目の授業開始を告げる鐘の音が響き、しばらくすると、廊下から生徒たちがぞろぞろと講堂へ入っていく賑やかな気配が漂ってきた。


私はゆっくりと立ち上がり、最後の身だしなみを整えた。神聖学準備室の片隅にある、少しひび割れた姿見に自分の姿を映してみる。

相変わらずの不健康な顔色の悪さと、手入れをサボって少し伸びてしまった髪。だが、今日ばかりは、一人の攻略対象としての背筋が自然と伸びるのを感じていた。


「……よし、身だしなみは整ったな。多分」


私はぱんぱんと両手で自分の頬を叩き、自分自身に強く喝を入れた。

これから始まる、新しいストーリーの幕開けを、一人の人間として素直に喜ぼう。素直に楽しもう。私は自分にそう言い聞かせると、授業開始のチャイムの音と同時に準備室の鉄の扉を開け放ち、隣の講堂へと向かった。


私は教壇の上に立ち、集まった生徒たちの顔をぐるりと見渡した。

まだ着慣れていない高等部の真新しい制服に身を包んだ、若々しい生徒たち。

――そして、その中央。

窓際から優しく差し込む春の陽光を浴びて、ひときわ美しく、神聖に輝く一人の女性――聖女セレスティーナが、そこに静かに座っているのを見つけた。


この乙女ゲームの、不動のメインヒロイン。

白磁のように滑らかな肌、亜麻色の柔らかな髪。実物の彼女は、前世で画面越しに見ていたグラフィックよりも、ずっと鮮やかな存在感を放っていた。


私はこれから始まる『ゲームのストーリー』を明確に予感し、大きく息を吸って、そして吐き出した。

そうだ。私はこの先、余計な色気は出さずに、ただゲームのシナリオ通りに実直に生きてみよう。

もしかしたら、難しいことなんて何一つ考えなくても、役割の論理(シナリオ)通りに生きさえすれば、私もこの世界で幸せに、それこそ一人の男として、改めてちゃんとした真っ当な恋だってできるかもしれない。

かつてフィリアのときに犯してしまったあの過ち――適切な教師と生徒としての距離感を保ってあげられず、彼女の未来をいくらか狂わせてしまったことへの深い懺悔とともに、私は新たな季節の幕開けを、肌で確かに感じていた。


「高等部一年生の皆さん、進学おめでとうございます。……私の名は、エリアス・ヴァン・アリス――」


私は、この世界に転生してからかれこれ三年近くやってきた、いつもの授業を始めていった。魔法学一般から神聖学へのアプローチ、精霊との繋がりや祈りといった基礎的な概念を中心に、まずは中等部時代のおさらいも含めて、教壇から丁寧に解説を進めていく。

それも、最初に比べたらだいぶ慣れたもので、緊張で声を詰まらせることもなく、至って自然に、理知的な教師として授業を進めることができた。


「それでは、これから一年間、神聖学についてもっと深く学んでいきますので、改めてよろしくお願いします。……本日の授業は以上です」


その授業の締めの言葉とともに、終了を告げるチャイムの音が講堂内に響き渡り、初日の授業は無事に幕を閉じた。

そして、その瞬間から、私の胸の奥にどくどくと張り詰めた緊張が走り始める。


三年前、ゲームの原作シナリオにおいて、エリアスは授業終了後に彼女へなんて声をかけていただろうか。……前世の記憶を掘り起こそうとしても、細かい台詞まではまったく思い出せない。ただ、授業が終わった後に、教壇から彼女へ何かしらの特別な声をかけてイベントが発生していたような……そんなうっすらとした記憶の糸だけを頼りに、私は自分の『攻略対象としての役割』を必死にこなそうとしていた。

何だかんだ言って、引きこもり気質の私は、人と話すのがそこまで得意ではない。特に、こんな見ず知らずの、初対面の美少女に対して自分から声をかけるなんていう機会は、人生の中でも滅多にないのだ。

緊張のあまり、少しだけ冷たい汗が背中を伝うのを感じながら、私は席にいるセレスティーナへと歩み寄り、できる限りの「理知的な教師」を装って彼女に声をかけた。


「は、初めまして。セレスティーナさん」

「初めまして、エリアス先生」


普段喋り慣れていない種類の眩しすぎる美少女との会話に、妙な緊張が走る。

「この度は入学おめでとう。君が聖女として一人前になるように、大神殿からも格別の指導をするようにと言われているんだ。もし、困ったことがあれば、いつでも準備室へ来てほしい」


私が大人の余裕を崩さずにそう告げると、セレスティーナは少しだけ不思議そうな顔を浮かべ、私の身の回りの空間をぐるりと見渡してから、快活に言った。

「はい、エリアス先生! ぜひよろしくお願いします! ……さっそくなんですけれど、先生に一つ、どうしてもお聞きしたいことが――」


――その、まさに彼女の唇が次の言葉を紡ごうとした、その刹那だった。


私の視界のすべてが、文字通り、真っ白な光の渦によって完全に塗りつぶされた。


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