第58話:(フィリアSide)久々の先生と記憶を覗く覚悟と決意 part.2
先生がベッドへと倒れ込んだのを確認すると、私は足音を殺してそっと先生に近づき、その規則正しい寝息を確認しました。
「……大丈夫。完全に、深く眠っています」
それから私は一度ドアのところまで戻り、念のために内側からしっかりと鍵をかけました。
もし万が一、この後に誰かが部屋に入ってこようとしてもすぐにはバレないように、慎重に、どこまでも慎重を期します。
「すぅーー……はぁーー……」
二度、三度と大きく深呼吸を繰り返してみましたが、それでも胸の奥の「どくどく」という激しい鼓動は一向に止まってはくれませんでした。
ゆっくりとベッドの上の先生に近づき、魔法を発動するために、お互いの額と額をぴったりとくっつけます。その瞬間、私の心臓の高鳴りは完全にピークに達していました。
このまま、寝ている先生にキスをしてしまったらどうなるのだろう。この無防備な先生を激しく抱きしめて、世界から隠して、自分だけのものにしてしまいたい……。そんな濁った欲望に身を苛まれながらも、私は小さく呼吸を整えて、深層干渉魔法の発動へと意識を集中させました。
何より、口と口のファーストキスは、いつかちゃんと、先生の方から私に対してしてほしいのです。寝ている先生を相手に勝手に済ませてしまうなんていう真似は、絶対に、絶対にダメです。
私は精霊達とともに、自らのマナを細く、丁寧に先生の脳内へと送り込んでいきました。
ゆっくりと、慎重に。そして先生の精神の奥底から跳ね返ってくるマナの波動を、丁寧に拾い上げていきます。
……しかし、実際にそこから脳内に推定された情報群は、あまりにも膨大なノイズだらけで、まともに意味を感じ取ることすらできない混沌とした何かでした。
その瞬間、私の脳の回路がかちっと冷徹に切り替わったような感覚がありました。
大好きな先生をこんなにも間近にしているからこそ、その愛おしさに心を奪われて、演算を狂わせてはいけない。
この魔法のタイムリミットは、先生の睡眠魔法が解ける明日の朝、五時まで。それまでに術式を完全に完成させて、意味のある本心を取り出さなくてはならないのです。
私は一瞬にして問題のバグがどこにあるのかに思いを馳せ、精霊達とともに様々な可能性を網羅しつつ、最もらしい仮説を脳内でもの凄い勢いで組み立てていきました。
確率の収束誤差、送り込むマナの強度、あるいは分解帯域の周波数など、少しずつ微細に値を変化させては、先生にマナを送り込んで情報を確認する――その地道な作業を幾度となく繰り返します。
不適切な仮説を一つずつ冷静に潰していき、返ってくる変化が最もらしいものへといくつかに絞り込んでいきました。ただそれだけの処理を行うだけで、十九時から始めたはずの作業は、いつの間にか二十三時を回っていました。
そこからさらに一時間以上の時間をかけて修正を施し、ようやく、ちょっとした意味のある『言葉』の断片を取り出せるようになったのは、日付をまたいだ夜の一時過ぎのことでした。
私の頭の中に、少し解像度の粗い先生の頭の中の景色や、記憶している言葉などがぽつぽつと流れ込んできます。
後はそれをさらにチューニングし、ノイズを除去して、しっかりと鮮明に聞き取れるレベルまで丁寧に仕上げていくのみです。その魔導の仕上げの作業に、さらに一時間程度。
結局、システムとして一定の確実な情報を得られるようになったのは、深夜の二時を過ぎていた頃だったと思います。
ただ、それまでにすでに得ていた断片的な先生の記憶の映像は、ひどく不思議なものばかりでした。この世界には絶対に存在しないどこかの光景……。奇怪な『鉄の車』が走り回り、空を突き刺すような『とても高い建物』が幾重にもそびえ立っている、そんな奇妙な物質世界が、先生の脳裏には焼き付いていたのです。
さあ、ここからが本番です。
残り時間は、あと三時間弱。私は改めて、先生の額に私の額をぴったりとくっつけ直し、事前に設計しておいた「記憶の深層を辿るため」の誘導マナを、丁寧に送り込んでいきました。
まず、私は先生の心に対して――『先生は、私のことをどう思っているの?』と、静かに問いかけました。
どきどきと胸を鳴らしながら受け取った、先生の私に対する想いは、あまりにも複雑で、一言では表せないほどに様々な色のグラデーションを描いていました。
私への感謝、一緒にいるときの安らぎ、心地よさ、胸の奥がぽかぽかするような温かい感覚といった、確かな好意的な感情もあれば……一方で、教師としての節度、恋愛感情への自制といった倫理観の壁。さらには私の子どもっぽさや危うさ、私を自分に依存させてしまっていることへの是非など、本当に多面的で。ああ、人間というものは、こんなにも簡単に「好き」とか「嫌い」なんていう言葉だけで割り切れない生き物なのだな、と深く知らされました。
それでも――他の誰よりも、先生が私のことを特別に想ってくれているということ。少なくとも先生の今の人生において、家族か、あるいはそれ以上に私の存在を気にかけてくれている、最も大事な存在なのだということはダイレクトに伝わってきて、私は堪らなく嬉しくなりました。
しかし――。同時に、先生の心の底から、私を「遠くへ離れていってしまった」「もう、フィリアから卒業しなくちゃいけないんだ」と捉える、あまりにも冷たい『諦め』の感情もまた、明確に伝わってきたのです。
私がこれまで、大神殿や騎士団で一生懸命に先生のために頑張ろうとしていた行動のすべては、もしかしたら先生にとっては、逆効果の拒絶として映っていたのかもしれません。
それでも、あのまま一緒にい続けても先生の立場を悪くしてしまうだけで……。本当にどうすればよかったのか、私の頭の中は一瞬にしてぐちゃぐちゃに掻き乱され、どうしたら正解だったのか、簡単に答えなど出そうにありませんでした。
いけません。そんな自分の感傷に浸っている場合ではありません。もっと、もっと調べなくてはいけないことが山ほどあります。まずは、目の前の先生の精神の解析に集中しなくては。
そうしてさらに記憶の深層へとマナを潜らせていくと、不思議なことに、先生にはこの世界の『エリアス・ヴァン・アリス』としての記憶だけではなく――『ニホン』という名前の異国での、●▲■▼という別の名前を持った、もう一つの人生の記憶があることが見えてきました。
この世界よりも遥かに高度な科学文明が発達した世界。そこで数学の勉強をしていて、それがうまくいかなくて……『インターネット』? 『ゲーム』? というものにのめり込み、そのまま部屋に引きこもってしまったという強烈な罪悪感と劣等感。そんな、自らの過去の不甲斐なさに対する深い怯えのような感情が、マナを通じて私の頭の中へとリアルに伝わってきます。
そして――ここは、乙女ゲーム、の世界……?
シナリオ……? 攻略……????
私の頭は、徐々に激しい混乱に支配されていきました。一体、先生は何を言っているのでしょう。
ジュリアン王子をはじめとした様々な人間が生きるこの世界の中で、一人の女の子――私が神殿で出会った、あのちょっとだけ知っている、とっても美人の女の子。セレスティーナさんという少女がすべての中心にいて……やがて、先生と恋に落ちる――?
どういうことなのだろう、と私の思考は完全にフリーズしました。なぜ、まだ起きてすらいない未来の出来事が、先生の記憶の中にはこれほどまでに鮮明な『既定路線』として存在しているのでしょう。
そのシナリオ通りに歴史が流れていくのだとしたら、この先、私ではなく――あの聖女のセレスティーナさんと、私の大好きな先生が結ばれてしまう――。
その瞬間、私の胸の奥は、言葉にするのもおぞましいほど、どろどろとした黒々とした嫉妬の感情に完全に支配されました。
大好きな先生が、私のろくに知りもしないあの女の人と――私よりも何倍も美人で、社交性があって、可愛くて、背も高くて、スタイルも抜群で、守護精霊にすら恵まれている、私なんかでは何一つとして勝てない……そんな完璧な女の子と、これから幸せになっていくストーリー。
そして――何より許せなかったのは、先生自身も、私のことを心のどこかで諦めて、そんなこれからやってくるセレスティーナさんとの未来に、どこか期待を抱いているような、そんな心の動きを感じてしまったことでした。
「嫌だ。絶対に嫌……。どうして……っ」
私はぼろぼろと、堪えきれずに涙を溢れさせました。私の目から零れ落ちた大粒の涙が、眠っている先生の頬へとぽつぽつと冷たく落ちていきます。
「そんな子なんかより、私を見て……っ。私だけの、先生でいて……!」
私は、もうこれ以上、先生の記憶の先を覗くことができなくなってしまいました。ただただ、大好きな先生の胸の中に顔を埋めて、大声を上げないように、必死に声を殺して泣き続けました。それでも、どうしても嗚咽の音が漏れ聞こえてきて、自分がどうしていいのか完全に分からなくなっていました。
規則正しく上下する、先生の少し硬い胸の上で、私はずっと、ずっと泣いていました。
『……大丈夫? フィリア……。泣かないで……』
『……これはきっと、まだこの世界で起きていないこと。未来なんて、いくらでも変えられるよ……。だから、元気を出して……』
精霊達が、私の脳内にとても、とても小さな優しい声で語りかけてくれましたが、私は完全に絶望のどん底に突き落とされていて、どうしても元気なんて出せそうにありませんでした。
「でも……でも……私みたいなダメな子は……もう先生にとっては、卒業して頭を切り替えるべき過去なんだって……」
『……先生は今でも、フィリアのことを世界で一番に想ってくれているよ。それは、フィリアも今一緒に記憶を見てきて、ちゃんと分かったでしょ?』
「うん……。そうだね……。ありがとう……」
精霊達のその言葉に、ほんの少しだけの救いと希望を見出して、私はどうにか呼吸を整えました。けれど、やっぱり辛くて、怖くて、悲しくて、涙はその後もぼろぼろと溢れてきてしまうのでした。
「私、これからどうしたらいいのかなぁ……。このままだと、先生をあの女の人に取られちゃう……。そんなの、絶対に嫌だよ……っ」
『ねえ……だったらフィリアが、その『聖女』になればいいんじゃない?』
『そうだ! それがいいよ! フィリアが聖女って素敵じゃない!』
「……そんなこと、私に、できるのかな……」
『できるよ。フィリアなら。だから、泣かないで』
その精霊達の力強い言葉に、私は激しく勇気づけられ、そして胸の奥で――決定的な『覚悟』を固めました。
「……分かった。私、やってみる。ありがとう、精霊達」
ふと部屋の時計の文字盤に目をやると、時刻はすでに四時五十分を過ぎていました。
そろそろ、先生に掛けた睡眠魔法の効果が完全に切れる時間です。私は最後に、眠っている先生の両手を私の手でそっと繋ぎ、改めて、その胸の上に身を横たえました。規則正しく上下する愛しい呼吸の波と、とくとくと刻まれる心臓の音。
私は、絶対にこの人の、この胸の、この特等席を、他の誰の女にも明け渡しはしない。だから、先生。もう少しだけ、そこで待っていてくださいね。
私が貴方の本物のヒロインとして、これからもずっと貴方の側に居続けるために。あの神聖学準備室での、二人だけの、世界で一番幸せだった時間を取り戻すために。
私は――先生のシャツのボタンを少しだけ指先で外し、露わになったその首の付け根へと、跡を刻みつけるようにそっと深く、愛のキスを落としました。
それから静かに立ち上がり、そっと窓を開け、自分自身の身体に『身体強化』と『完全隠蔽型の認識阻害』の魔法を重ねて展開すると、私はベランダの手すりから、夜明け前の外の空間に向かって思いっきりジャンプしました。
まだ東の空に星がうっすらと残る、夜明け前の冷たい風を全身で切り裂きながら、私の心は、もう二度と揺らがないほどに冷酷に固まっていました。
絶対に、先生と新しいヒロインとの出会いを。その絶対の運命を、この私の手で根本から書き換えて――私が、この世界の『聖女』に、本物の『ヒロイン』になってみせる。
そして、また――あの愛おしくて幸せだった二人の日々を、私の手で完全に、取り戻すのだと。




