第56話:(ギルバートSide)女神との再会と、不思議な奇跡
本来、自然の運行を司り、人間の祈りを通じて大いなる恩恵をもたらす普遍のエネルギー――それが精霊だ。
しかし、原因は未だ解明されていないが、その純粋な性質が突如として反転し、人間に害を成す物理的な肉体を得て具現化してしまった異形の生物。それこそが、この世界における『魔獣』の正体であると言われている。
我が国の騎士団における主な任務は、他国との戦争以上に、この魔獣を迅速に討伐することであった。
私、ギルバート・デッケルは高等部の一年生。十六歳にして、この度行われる大規模な魔獣討伐の作戦において、名誉ある初陣を果たすこととなった。
将来の騎士団の幹部候補だからこそ、この若いうちから過酷な現場の空気を知り、それを日々の学びに生かさなくてはならない。それが王立学校セント・ラプラスの騎士育成における絶対の方針であり、私に課せられた務めでもあった。
年が明けた一月中旬。地方の村を襲い、そのままそこに居着いてしまったという魔獣の討伐に向けて、正規の騎士小隊が一つ、魔術師が三名、神聖魔法使いが五名、そして私たち学生代表の精鋭八名が派遣されることとなった。
学生八名は、それぞれ強力な魔術師や神聖魔法使いの専属護衛として陣形に組み込まれる。小隊全体の連携の要となる本陣の側で、比較的安全を確保されつつ、多くの戦術を実体験から学ぶ――というのが、我が校の初陣における古くからの習わしであった。
しかし、これは運命の悪戯というべきだろうか。
最初の合同訓練の場に赴いたとき、私の心はひどく動揺することとなった。
私の割り当てられた護衛対象は、私の知る限り史上最強の神聖魔法使いであり、そして――私の、狂おしいほどの初恋の人。フィリア・レオンハルト嬢だったのだ。
かつて学園で『白鹿の魔女』と噂され、今や『白鹿の女神』とまで称えられている、普段の学内ではもう滅多に見かけることすらできなくなってしまった幸運の女神が、今、私のすぐ隣に立っていた。
私はこの奇跡的な再会を、神とすべての精霊たちに感謝した。
一年前に伝えられなかった思いを、今度こそ打ち明ける機会が巡ってきたのだと、本気で思った。
だが、私は一人の男である前に、誇り高き騎士であり、彼女の命を預かる護衛の身だ。
その思いは、任務を終えるその瞬間まで胸の奥に封じるべきものだった。
そんな、私の胸が焼け焦げるほどの高鳴りを完全によそにして、彼女の表情は冷たい冬の空気のように静まり返っていた。一年前のあの『王冠陣奪戦』のときと同じ、どこか遠い虚空を見つめているかのような、色を失った瞳。
ただ、一年前のあの頃とは決定的に違い、最近の彼女は、どこか寂しそうな、今にも泣き出しそうな悲しい表情を浮かべることが、ひどく多いように私には思えた。
一か月と少しの訓練期間中も、フィリア嬢の様子は相変わらずであった。
部隊の撤退演習をはじめとした指揮官からの重要な指示を、上の空でまったく聞いていないというのは日常茶飯事で、そのたびに我に返っては、申し訳なさそうにぺこぺこと頭を下げていた。
しかし――彼女が放つ魔法の威力だけは、以前にも増して絶大であった。
たった一人で、一個小隊の全員に対して、信じられないほどの爆発的な能力強化を無詠唱で瞬時に実現してしまうのだ。
その目の当たりにした奇跡の光景に、百戦錬磨の正規の騎士たちすらも一様に驚愕し、彼女を本気で「我が部隊の女神だ」と大絶賛して称賛する。
私もまた、その戦場に佇む彼女の神々しい姿に、改めて何度も心を奪われてしまうのだった。
また、私以外にも、彼女の周囲にはかなりの人数の中堅騎士が護衛として割かれていた。
事前に騎士団長から直接、「彼女は我が国家における極めて貴重な頭脳であり人材だ。戦場において、絶対に髪の毛一本すら傷つけてはならない」との厳しい訓示を叩き込まれており、その身の引き締まるような重圧に、私の背筋は常に伸びていた。
訓練期間の合間、何度か彼女と直接言葉を交わす機会にも恵まれた。
だが、勇気を出して私から話しかけてみても、彼女の心はここにあらずといった様子で、まともに返事が返ってこないことがほとんどだった。
たまに言葉があっても、蚊の鳴くような声で「はい」とか「わかりました」が一つ二つ返ってくるだけ。
その冷たい現実のたびに、私という男の存在など、彼女の心の底のどこにも一微塵もいないのだということを痛烈に突きつけられ、私の胸は引き裂かれるように痛んだ。
それでも、少しでもこのレイドの作戦期間中に彼女に格好いいところを見せようと、私は公私ともにできる限りのサポートを尽くしたつもりだった。
そんな彼女が、この一か月間で唯一、まともに感情を露わにして私と対話してくれた瞬間があった。それはやはりというか……あのエリアス先生の話題だった。
厳密に言えば、私の不用意な失言のせいで、彼女をその場で大泣きさせてしまった事件とでも言うべきだろうか。
「最近は、エリアス先生とはどのようなお話をされているのですか?」
休憩中、何気なく尋ねたその私の問いかけに対して――彼女は突如、その綺麗な金色の瞳から大粒の涙をぼろぼろと零し、その場に立ちすくんでしまったのだ。
「エリアス先生に、何かひどいことをされたのですか!?」
私は一瞬にして心配になり、そして彼女のその涙の理由がもしエリアス先生の不条理な振る舞いにあるのならと、激しい義憤に駆られた。
だが、私のその表情の怒りを敏感に察したのか、彼女は即座に、必死の様子でエリアス先生のことを庇ったのだ。
「先生は……何も悪くない、です……っ。何も、悪いことなんてしていないし……本当に、世界で一番素敵な、いい先生です……」
「ではなぜ、貴女はそんな風に泣いていらっしゃるのですか?」
「わ、私が……私がダメな子のせいで、先生に、もう何もしてあげられなくなってしまった……。それが、ただ悔しくて悲しかっただけです……。だから、お、お願いですから、せ、先生のことを悪く思わないでください……です」
「……分かりました。これ以上は聞きません」
目の前の少女をこれほどまでに泣かせておきながら、それでもなお、彼女の心のすべてを支配しているのはエリアス先生なのだという決定的な現実。
それを痛いほどに察してしまい、同時に「これで私にもいくらか付け入る機会があるのではないか」などと一瞬でも考えてしまった自らの浅ましさが、私はただただ猛烈に恥ずかしかった。
そんな激動の訓練の日々が終わり、いよいよ迎えた魔獣討伐のレイド当日。――そこで、ちょっとした、いや、今思えば不可解極まりない事件が起きた。
レイド作戦そのものは、極めて順調だった。フィリア嬢の放った一斉広域強化の光を身にまとった本隊は、弓、魔法、そして近接打撃の波状攻撃により、村を襲っていた主な魔獣をあっさりと討伐せしめた。
村の外れの後方陣地にて、武器を構えてただ待機しているだけだった私の初陣は、本当に何一つ起きないまま、ただただフィリア嬢の側に立っているだけで終わってしまった。男としてのいいところを一つも見せることができなかった私の心には、不甲斐ない不完全燃焼感だけが残る。
しかし、事件は本隊の戦闘が完全に終了した、その直後に起きた。
フィリア嬢の周囲に、私を含めた五名ほどの最低限の護衛だけを残し、ほとんどの正規騎士や魔法使いが、事後処理のために村の中へと入っていった。魔獣の解体や、村の損害状況の確認を急ぐためだ。
まさにその手薄になった瞬間、森の奥から、狼の姿をした別の魔獣が十匹ほど突如として現れ、俊敏な動きで私たちを完全に対陣包囲したのだ。
「フィリア様を守れッ!」
一人の騎士が叫び、空に向けて救援信号の狼煙を上げる。私たちは即座にフィリア嬢を中心とした円陣を組み、彼女を守るための防衛陣形を展開した。
「フィリア様、強化魔法をお願いしますッ!」
護衛の一人が悲痛な声を上げる。しかし、肝心のフィリア嬢は、いつもの練習のときのように虚空を見つめたままぼーっとしており、魔法を発動する気配は微塵もなかった。
それもそうだろう、と私は思った。どれほど規格外の魔力を持っていようとも、中身はまだ中等部の少女なのだ。このような予期せぬ実戦の包囲に、恐怖で足がすくみ、声も出なくなってしまっているのだと確信した。
私は歯を食いしばって前方の盾を構え、その盾の裏で剣の柄を壊れんばかりに握りしめ、襲いかかってくる魔獣たちの突撃の衝撃に身を備えた。
――その、まさに次の瞬間だった。
炎が上がるわけでも、凄まじい爆発音が轟くわけでもない。
光も、音も、衝撃すらもなく。
ただ、私たちの目の前にいた十匹の魔獣たちの肉体を構成していた強大なマナが、さらさらとした光の粒子となって空気に溶けていき……。
次の瞬間には、その群れのすべてが、この空間から完全に「消滅」していたのだ。
もともと、そんな場所に魔獣なんて一匹も存在していなかったかのように。ただ、静かな冬の風だけが、私たちの間を何事もなかったかのように吹き抜けていった。
その目の前で起きた異常な奇跡を前にして、誰もが呆然と立ち尽くし、声を発することすらできない。今起きた事象が信じられないと、私たちは互いに顔を見合わせた。
「今……魔獣が、消えたよな?」
「何が……一体、何が起きたんだ……?」
私は万が一の敵の残党の可能性と、何より任務の重要性を鑑み、震えている護衛対象のフィリア嬢へと真っ直ぐに声をかけた。
「フィリア嬢! お怪我はありませんか!?」
すると、フィリア嬢はまたしても、その綺麗な瞳にぼろぼろと大粒の涙を溜め、下を向いたままがたがたと立ちすくんでいた。
やはり、今の不気味な現象が怖かったのだろう。そう思った私は、彼女の小さな肩を支えようとそっと手を差し伸べようとした。
だが、その瞬間。彼女の小さな唇からぼそぼそと漏れ出してきた言葉は、私の想像の遥か斜め上をいく、あまりにも異次元な内容だった。
「……先生の、馬鹿……。準備室に、私以外の他の子を入れちゃ……絶対に嫌だよぉ……っ……」
「……え?」
一体、今ここで何が起きたのか。なぜ魔獣が一瞬で消滅したのか。
それすら一ミリも分からない緊迫した戦場の中で、なぜか目の前の女神が、遠く離れた学校にいるはずのエリアス先生への独占欲をぼそぼそと呟きながら大号泣しているという、あまりにも不可解な光景。
私の心も頭も、この戦場で起きたことから完全に置いてけぼりにされたまま――私の不思議な初陣は、結局、彼女に本当の思いを伝えることすら叶わないまま、ただただこの奇跡に流されるまま終わったのであった。




