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第54話:一人の生活が辛くなってしまった

秋も深まった土曜日の朝。私は、今日着るべき下着が何一つ残っていないという現実に、頭を抱えていた。

厳密に言えば、シャツもパンツも山ほど眠っている。ただし、それらすべてが「未洗濯」の状態で山積みにされているのだ。

何だかんだで三十セットはストックがあったはずなのだが、その洗われていない衣類の山が部屋の片隅に、それこそ『富士山』のように高くそびえ立っていた。


「……洗うか」


私はその富士山の山腹にがさっと手を突っ込み、汚れた衣類をいくつか抱えて、魔道具の洗濯機の中に突っ込んでいく。

だが、一人暮らし用の小型の洗濯機では、私が両手に持った衣服の半分程度を詰め込んだだけで、すぐに中が一杯になってしまった。

洗剤を入れ、魔法を発動すると、洗濯物が水に浸されてがらがらと回り始める。

残った洗濯物を元の場所へ戻すと、富士山と浅間山のちょうど中間くらいの、なんとも言えない不格好な山が再形成された。


パンツとシャツの一枚きりでは、そこそこ肌寒さを感じるようになった秋の朝。冷蔵庫を開けてみても、中には調味料の瓶くらいしか残っていなかった。

せめて温かいコーヒーでも飲もうと思ったが、フィリアが夏休み前に買ってくれたあの大きめのコーヒー豆の袋も、先週の時点で完全に使い切ってしまっている。

ソファの前のテーブルには、昨日の夜……どころか、ここ数日間のうちに買って帰ってきた、市販のお惣菜の空き箱がそのまま放置されていた。


改めてもう一度頭を抱え、自分の私生活における「生活力の低さ」を痛感する。

前世の理系大学院生としての自分もこんな感じだったのはもちろんだが、この異世界に転生した先の人格であるエリアスも、少なくとも大神殿に勤めていた頃はまったく同じような生活をしていた。


「本当に、異世界転生したからって、人間の中身なんて何も変わりやしないな……。いや、変わりやしない、こともなかったのかな……」


私は、この一年ちょっとの間、私の部屋がこれほどまでに荒れ果てた姿にならなかった理由を、本当はよく知っている。

転生した初日に私が助けたあの銀髪の少女――フィリアが、定期的にこの部屋を訪れては、当たり前のように洗濯をしてくれたり、部屋の片付けをしてくれたりしていたからだ。

深いため息を一つ吐き、コップに注いだ水道水を一気に飲み干して喉の渇きを潤したが、そのあまりにも素っ気ない味に、私は少しだけがっかりしている自分に気がついた。


よくよく客観的に考えてみれば、私自身、だいぶひどい大人であったのだと今さらながら痛感させられる。

フィリアが好んでやってくれていたこととはいえ、まだ中学生の少女を都合のいい家政婦のように頼り、それを「教師と生徒」という立場を免罪符にして、当然のように受け取ってしまっていたのだ。

そんなクズの極みみたいな大人の私に対して、彼女は一体なぜ、あれほどの好意を寄せてくれたのだろうか。

「やっぱり、あの子が思うほど、私はいい男なんかじゃないよなぁ」

フィリアの圧倒的な「男の見る目のなさ」に、ただ無自覚に救われていただけの自分が、本当に情けなくて仕方がなかった。


改めて思う。この乙女ゲームの世界において、私は一応の攻略対象の一人だ。

だが、その原作ゲームの中に『フィリア・レオンハルト』という人物は出てこなかった。モブキャラクターのグラフィックの中にも、あの小柄な少女の姿はどこにもいなかったはずだ。

隠しルートの裏シナリオのラスボス、という線も一瞬だけ考えたが、前世で攻略wikiを見て、完全クリアまでやり込んだ私の記憶に、そんな情報は一微塵も残っていない。やはり、フィリアという女の子は本来の世界線には存在しなかったのだ。

私自身の個別ルートのシナリオにも、「優秀な愛弟子を育て上げた」なんていう立派なエピソードは出てこなかったし、ギルバート君の昔の失恋話に彼女の影はなかった。少なくとも、来年以降にジュリアン王子が率いることになる生徒会にも、彼女の席は存在しない。


そうなると、もともとのゲームのシナリオを前提にするならば、やはり彼女はこの世界において「存在してはならない生徒」なのかもしれない。

現に、今こうして私は彼女と会えなくなっており、来年の春を迎える頃には、本当にフィリアはこの学園から消えてしまっている可能性だって高い。

それがいい意味なのか、あるいは悪い意味なのかは私には分からないが……フィリアは私の手から完全に離れて、この学園とは違う、私の手の届かない遠い場所に行ってしまうのだろうか。

ゲームのシナリオの強制力が事実なら、私たち二人がこうして引き離されてしまうのは、避けることのできない運命であり、必然なのだろうか。


「役割の論理なんて、本当に実在するのか……?」


そんな答えの出ないくだらない思考を巡らせては、私はフィリアの不在を――私から静かに離れていってしまった彼女のことを、ひどく寂しく思ってしまっているのだった。


引っ越しのときにとりあえず持ってきたフィリアの私物や小物類は、未だに段ボール箱の中にしまわれたままで、部屋に出されていなかった。

ふと気になってその箱の中を覗き込んでみると、そこからは彼女と過ごした様々な思い出の品々が次々と顔を出した。

二人で使うために彼女が持ってきたコップ、料理用のボウルや包丁をはじめとしたキッチンの小物、見覚えのあるエプロンや掃除道具。そしてなぜか、箱の隅にちょこんと座っていた、小さなクマのぬいぐるみ。

それらの品々に刻まれた時々の記憶とともに、私の前でころころと表情を変えていたフィリアの顔を思い出してしまい、胸の奥がずきずきと痛んだ。


この胸の痛みに名前をつけるとしたら、一体何というのだろう。

「失恋」と呼ぶには、私たちの関係はあまりにも未熟だし、そもそもフィリアをそんな対象として見るのは教師の立場として絶対に不適切なはずだ。

だが、いざ彼女が目の前から完全に離れてしまうと、心にぽっかりと空いた巨大な穴の存在を、こんなにも寂しく思ってしまっている。そして、その不在を一人で悲しむには、私は大人としてあまりにも都合がよすぎるのではないか。

……けれど、前世の学生時代、ネット越しに出会っただけの人妻に実らない恋慕を抱いて悶々としていたあの頃の痛みに比べれば、今のこの胸の痛みは、遥かに「本物の失恋」に近い何かであるような気がしていた。


ただ、一つだけ確実に言えることは、私はフィリアとの『距離感』を完全に間違えたのだ。

本当は、彼女が部屋に来た最初の段階で、ちゃんと拒めばよかったのだ。適切な「教師と生徒」の境界線を維持しているべきだった。

端的に言って、私がフィリアという少女の好意に甘えすぎていた。それが、すべての過ちの始まりだったのだと……改めて思い知らされる。


来年からは、いよいよゲームの本編シナリオの世界が始まる。聖女セレスティーナとの関係は至極まともなものであり、私の個別ルートであれば、普通に学園を卒業した後に彼女と結ばれる……という、極めて穏健で真っ当なものだったはずだ。

少なくとも、生徒に手を出した教師という破滅に向かっている私にとっては、フィリアを未練がましく追いかけるよりは、そんなゲーム通りの人生を歩む方が、遥かに大人として正しいのだろう。


まあ、何にせよ。フィリアの私からの独り立ちを祝うなら、私もフィリアに頼ってばかりの生活から卒業しなくてはならない。

私は山積みの洗濯物の中から、まだ何とか着られそうなシャツとズボンを引っ張り出して身にまとうと、テーブルの上のゴミをひとまとめにし、床のあちこちに転がっている大量のゴミを回収して、一気に外の集積所へと捨てに行った。

お皿などの洗い物はまだシンクに残っているが、少なくとも、机の上にペンと紙を置いて文字が書けるだけの最低限のスペースは用意できた。


私はテーブルに一枚の白い紙を置き、これからの自分に対する「決意」をペンで書き連ねていく。


・三日に一度は必ず洗濯をする

・土曜日には部屋の掃除をする

・毎週、指定の日にゴミは捨てる


自分で書いていて、あまりのレベルの低さにひどく悲しくなってくるが……改めて、これが今の私の、情けないスタート地点なのだろう。

私はその書き置きをカレンダーの上に重ね、ピンで壁に留めて、いつ何をやるべきかのチェック欄を書き込んでいった。

ちゃんと、このカレンダーの予定がチェックマークで埋まるように、心を新たにして頑張ることを静かに決意する。


二度と、少女からの純粋な好意を無償で消費するような、汚い大人になってはいけない。

私は段ボール箱の底から、あの小さなクマのぬいぐるみを取り出すと、未練がましいとは思いながらも、その自立計画カレンダーのすぐ近くにある棚の上へとそっと置いた。


それから、ようやく一回目が終わった洗濯物をカゴに入れ、ベランダへと干しに向かう。

「しかし……あと何度この洗濯を繰り返せば、あの富士山は消えるんだ? というか、そもそも、衣服を干す場所が圧倒的に足りない気がするのだが……」


ベランダで途方に暮れながら、私は早速、あの部屋の片隅に置いたクマのぬいぐるみの持ち主の存在を、狂おしいほどに恋しく思ってしまっていた。

結局のところ、私はどこまでも、本当に汚くて弱い大人のままであるらしい。私は自らの不甲斐なさを、心の中で深く呪うことしかできなかった。


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