第49話:去年の夏と比べてしまった
夏休み前、最終日の昼前。
茹だるような室内の暑さに我慢ができず、私は窓だけでなく、少し重たい準備室の鉄のドアも開け放った。
すると、汗ばんだ身体に、廊下から少しだけ涼しい風が吹き抜けていく。
しばらくすると、その風とともに、長い銀髪を靡かせた少女が無言で入ってきた。
彼女はいつもの見慣れた動作でお湯を沸かし、茶葉を入れたティーポットへ注ぐ。
それから冷凍庫の氷を、がらがらと小気味よい音を立ててポットへ投入していった。
机に置いてくれたティーカップはひんやり冷たく、喉越しも最高に気持ちがよかった。
「ありがとう、冷たくてとても心地よいよ」
そう言うと、フィリアは嬉しそうな、でもどこか少し悲しそうな、なんとも言えない複雑な笑みを浮かべた。
「あまり時間もありませんから、お弁当にしましょう」
「大神殿の方は、順調かい?」
私が何気なくそう尋ねると、彼女は少し拗ねたような顔をして唇を尖らせた。
「うーん……せっかくの先生との時間です。もっと別の、楽しいお話がしたいです」
「そっか……」
「あ、そうだ。そろそろ先生の自宅用コーヒー、少なくなってきていると思ったので買っておきました。先生の好きな、いつものやつです」
そう言って、いつもより少し大きめの、ずっしりとしたコーヒー豆の袋を渡された。
「夏休みはあまり会えないと思ったので、多めに買ってあります。それから、これは今日の夜の分のお弁当です」
「ああ……いつも本当にありがとう。とても助かるよ」
「お弁当箱は洗って、シンクのところに置いておいてください。夏休み中に来る機会があれば、私がまた回収しておきますから」
「うん、分かった」
いつも通りの、ちょっとした他愛のない会話。
それなのに胸の奥に寂しさと悔しさが押し寄せてしまうのは、このわずかな休憩が終われば、すぐにフィリアが大神殿へ行ってしまう事実に、私自身が未だ納得できていないからだろうか。
「先生は、今年の夏休みはご実家に戻られるのですか?」
「あー、うん。今年は少し帰ろうと思っているよ」
「確か、王都から三時間くらいでしたっけ?」
「うん。キプロンという街だよ。海がそこそこ綺麗なところでね」
「いいなぁ……今度、私を連れて行ってくださいね」
そう言って、フィリアはまた、なんとも言えない笑みを浮かべた。
「……うん。機会があれば……ね」
「いつか……きっとですよ。約束ですからね……」
一年前の彼女なら、もっと目を輝かせて「私も絶対に連れて行って!」とわがままを言って私を困らせていたのかな、と、最近あまり見られなくなった無防備な表情をふと思い出す。
そんなことを思い出し、また一人で寂しさが募っていった。
お弁当を食べ終え、冷たいお茶を喉に流し込んでいると、開け放った鉄のドアをこつこつとノックする音が響いた。
その冷徹な音とともに、私が大好きだった時間が終わりを告げる。
「フィリア様……お迎えの馬車が参っております」
「あー……はい。今いきます……」
フィリアはいそいそとお弁当箱をしまい、神殿へ戻る準備を整えていく。
「それでは、先生。行ってきます」
「うん、行ってらっしゃい。頑張って」
彼女はやはり、あのなんとも言えない笑みを浮かべて、静かに準備室から去っていった。
本当なら、この若さで大神殿に招かれた彼女の躍進を、手放しで祝福してあげなければならない。
しかし――教師としてうまく彼女を栄転に導いてあげられなかった不甲斐なさ。いや、むしろ私の不用心のせいで、彼女に行くことを義務づけてしまったのではないかという、深い負い目。
この感情をどう処理してよいのか、未だに分からずにいる。
それでもフィリアは、彼女なりに前を向いて頑張ってくれているように見える。
たとえそれが痩せ我慢だったとしても、今は前向きに捉えてくれていると思いたかった。
その日の午後は、本当に静かだった。
窓から開け放たれたドアへと吹き抜ける、夏の風の音だけが、ごくたまに聞こえるくらいで。
――そこにあるはずの、誰かが本のページをめくる微かな音が、どこか懐かしく、無性に恋しくてたまらなかった。
そんな、少し寂しい夏の日の午後だった。




