第42話:(ジュリアンSide)誤算の先の誤算
五月末。
魔法演舞の前日、フィリア・レオンハルトは完全に死んだ目をしていた。
厳密に言えば、この一週間ずっとそんな調子だった。
エリアス先生から、演舞当日までの放課後は神聖学準備室への出入りを禁じられ、更には本の持ち込みまで制限されたらしい。
週の前半は何もないのに突然わんわんと泣き出すなど、極めて情緒不安定で、ほとほと手を焼かされた。
『練習』と言っても、主に私と相棒の騎士ハイメに彼女が強化魔法をかけ、その後、我々が演舞の動きを詰めるのが基本だ。
最初に凄まじく強いバフをかけてくれ、しかもその持続時間が異常に長いため、通し稽古の開始時に一度詠唱してもらうだけで済む。彼女は本質的には「暇」な立場だった。
魔法だけかけて即離脱しようとする彼女に、エリアス先生から「毎回すぐ帰ってくるのはダメだ」「自分から出ると言ったのだから、最後までちゃんと練習に参加しなさい」と厳しい指導が入ったらしい。改めて、しっかり筋を通す先生だと思う。
私としても、最後の一週間くらいは彼女と関係を構築したかったのだが、これがなかなか難しい。
「良い魔法だったよ」「どんな術式を組んでいるんだい?」と声をかけても、基本は酷く困ったように下を向いて黙り込んでしまう。
やっと昨日、少し長く言葉を交わせた。その話題はやはり、エリアス先生に関することだった。彼女の絶対的な関心の対象のこととなれば、反応を示す。そういうことか。
「フィリア嬢、今週は最後まで練習に付き合ってくれて、本当にありがとう。君が逃げずに出てきてくれたこと、エリアス先生もきっと喜んでいると思うよ」
そう告げると、フィリア嬢の死んだ目に少しだけ光が戻った。
「はい……私、が、がんばりました……」
「ええ。明日も本番の魔法を見せてもらえれば、エリアス先生も間違いなくお喜びになるでしょう」
「ええと……私、少しは、その……せ、先生を見返せて、いるでしょうか……」
「明日は是非、私たちと一緒に、エリアス先生に良いところを見せましょう」
少しやる気の宿った顔を見せてくれたが、私の不安が完全に払拭されたわけではなかった。
魔法演舞は、王立闘技場を貸し切って盛大に行われる。
国王である私の父も観覧し、観客は数百人を超える。大神殿の関係者や魔法省の面々も視察に訪れる、国を挙げた人材発掘の場だ。
私たちは中等部の最後、大トリの出番だった。
控室。私たちの出番が近づくにつれ、フィリア嬢の顔色はみるみる青ざめていった。
舞台袖に立つと、前の組の演舞への巨大な歓声が地鳴りのように響いてくる。
横のフィリア嬢は、今にも倒れそうなほど顔色が悪く、ガタガタと全身を震わせていた。
「大丈夫だよ、フィリア嬢。魔法をかけてくれるだけでいい。それだけで、エリアス先生はちゃんと褒めてくれるよ」
「……で、でも……出来なかったら……私……先生をがっかりさせて……嫌われちゃう……嫌だ……」
その恐怖に震える姿に、人選を間違えたのではという思いが過ったが、すぐに振り払い、彼女を安心させることに集中した。
「大丈夫。落ち着いて。エリアス先生は、君を嫌いになったりしないよ」
「でも……嫌だ……怖い……!」
会場から、割れんばかりの歓声と拍手が上がった。前の演舞が終わった合図だ。
しかし彼女はその音を聞いた瞬間、耳を塞いでボロボロと大粒の涙を零し始めた。
「大丈夫だ。私たちの手を握って、後ろについてきてくれ」
私とハイメは両側から手を取り、観客から見て不自然にならない形を意識して、舞台への入場を開始した。
舞台に上がると、先ほど以上の大きな歓声と拍手が湧き起こる。
私とハイメは堂々と一礼したが、フィリア嬢は挨拶の動作すらできず、うつむいていた。
定位置につくと、会場が期待に満ちた静寂に包まれる。
ハイメと私は剣を抜き、刃を合わせて構える。
……しかし、悪い予感が的中した。フィリア嬢は完全に固まり、震えて動けずにいた。
十秒ほどの不気味な静寂に、観客席から「どうしたんだ?」とざわめきが起こる。その声で、彼女はさらに萎縮し、硬直してしまう。
一分近い静止が続き、ハイメの額に冷や汗が浮かんだ。
(仕方がない。この事態を引き起こしたのは、彼女を選んだ私の責任だ。私が、この場をなんとか収める他ない……か)
剣を下ろし、何か口実を設けて演舞を中断しようと覚悟を決めた、まさにその時だった。
『フィリアーーーーーッ! 自分を信じて!!』
やや遠く、観客席のどこかから会場に響き渡った、エリアス・ヴァン・アリスの叫び声。
その声が会場の空気を震わせた瞬間。
フィリア嬢は弾かれたように顔を上げ、深い祈りの姿勢を見せると――。
闘技場の空間そのものに、幾重もの巨大な『虹』がかかった。
そう形容する他ない光景だった。
圧倒的な濃度のマナの光が、会場全体を――観客席の最上段、私の父である国王の特等席をさらに超え、遥か遠くの空にまで広がったのだ。
その神々しい光の波動を浴びて、あれほどざわついていた観客たちは、一斉に息を呑んで静まり返った。
光が収まってもしばらく誰も言葉を発せず、やがて、それは地鳴りのような巨大な大歓声へと変わった。
私たち二人は、予定通りに演舞を開始した。
驚くべきことに、練習時よりも遥かに強力な強化だった。私とハイメは信じられない身体能力で舞台を跳躍し、激しく剣筋をぶつけ合う。その規格外の動きを披露する度に、会場からは熱狂的な歓声が上がった。
演舞が終わり、私が代表して挨拶をすると、会場全体が揺れるほどの万雷の拍手が鳴り響いた。
しかし振り返ると、フィリア嬢は挨拶もそこそこに、もの凄い勢いで一人舞台から飛び降り、走り去ってしまっていた。
私はひとまず、無事に演舞を終えられたことに安堵の息を吐いた。
だが――この異常な魔法によって、国家レベルの様々な思惑が政治的に動き出してしまったことを、私は後に知ることになる。
すべてが終わった後、父である国王の元へ向かった時のことだ。
「ジュリアン。あの娘は、一体何者だ」
「はい、私の生徒会の――」
「あの才能が公に知られてしまったことは、極めて危うい。各派閥の重鎮も、他国の諜報も……皆が、あの傑物の存在に気づいてしまったぞ」
父は、歓声の残る闘技場を見下ろしながら、低く続けた。
「あれは祝福ではない。あれほどの力は、必ず奪い合いになる」
私の背筋を、氷のように冷たい汗が流れ落ちていくのを感じた。
あそこでフィリア嬢が展開した強化魔法は、前衛である私たち二人『だけ』にかかっていたのではなかった。
闘技場の観客のほぼ全員に、何かしらの能力向上のバフがかかっていたのだ。
数百人という人間に対して『一斉に広域強化をかける』という、戦局の概念すら覆しかねない前代未聞の離れ業を、あの少女は無意識にやってのけていた。
フィリア・レオンハルトという規格外の存在が、学園という安全な箱庭を抜け出し、研究機関や軍、政治の舞台にまで届いてしまった。
もっと慎重であるべきだったと気づいた時には――すでに、すべてが後の祭りであった。




