第39話:男とは何か一晩中考えてしまった
ある日の夜。
仕事を終えて自宅のドアを開けた、夜の七時ごろのこと。
「おかえりなさい、エリアス先生」
聞き慣れた、いつもの声が部屋の奥から響いた。
「あー、ただいま……って、自然すぎてびっくりしたわ。なんで居るの?」
「なんでって……今日、先生の部屋に行きたいって私、言いましたよね?」
「いや、ダメって言いましたよね?」
「先生こそ聞いていなかったんですか? ダメって言われても、行くって言いました」
何度も彼女を家に上げている身だ。
今日その回数が増えたからといって目くじらを立てるのもおかしく、私は諦めてソファに腰を下ろした。
「あのね、フィリア。何度も言いますが、私と貴方は教師と生徒。こういうのは不健全ですよ」
「はいはい。先生は私に、何か不健全なことをするのですか? そこは私は、百パーセント信頼していますから」
「あー……だから、そういうことじゃなくて……」
しかし、独り暮らしを始めて何年経っただろうか。
帰ってきた瞬間に「おかえりなさい」なんて言われたのは、一体いつぶりだろう。
その暖かさを、ほんの一瞬でも「いいな」と思ってしまったのは、私の心の弱さなのだろうか。
フィリアはキッチンで野菜を切り、同時に魔道具での洗濯も進めていた。
下校から私の帰宅までの一時間ちょっとで、買い出し・料理・洗濯までこなしている。
相当に手慣れたものだな、と感心してしまう。
「前も言いましたけれど、鍵をかけないのは不用心です」
「こんな部屋に、盗まれて困るものなんてないよ……。というか、私が夜ご飯を外で食べてきていたらどうするつもりだったんだい?」
「んー、その時は、作ったご飯は明日の朝に食べてもらえば良いかなって」
「じゃあ、もし鍵が閉まっていて、私が何時間も帰らなかったら、ドアの前でずっと待っているつもりだったの?」
「そうですねー……。そんなこと、考えもしませんでした」
鍵をかける男だと思われていない程度には、悪い意味で信頼されているのだろうか。
今日のシチューとサラダを、フィリアは私の真横にちょこんと座って一緒に食べた。
「ふー、ふー……」
とスプーンのシチューを冷まし、私の口元へ持ってこようとする気配を察し、私は先手を打つ。
「言っておくが、『あーん』はもうしないぞ」
私は特に冷ますこともせず、熱いままのシチューを口へ放り込んだ。幸いにして熱いものには慣れている。
あからさまに残念そうな顔をするフィリア。
「むぅ……。味、大丈夫ですか?」
「うん、ちゃんといい味が出てるよ。とても美味しい、食べやすいよ」
フィリアは安心したように、嬉しそうにはにかんだ。
食後、私はシンクで食器を洗うことにした。
すべてを中学生の彼女に任せきりにするのは、大人としてのせめてもの矜持だ。
「あ、お皿洗い、私がやりますよ」
「大の大人が中学生の女の子に全部世話してもらうのは、流石に……」
「今更そんなことを言っても、言い訳にもならないですよ? でも、お言葉に甘えて、私は洗濯物を干してきますね」
男物とはいえ自分の下着を教え子に干させている教師はどうなんだ、と頭を過ったが、彼女の言った「今更」という言葉が本当にしっくりきて、苦笑してしまった。
本当に、自分は流されやすい弱い人間だ。
「今日は早めに帰りなよ。明日も学校があるんだから」
「えー、もうちょっと居たいです」
「絶対に、泊まっていくだなんて言うなよ。それだけは絶対に許さないからな」
「えー、前に一度泊めてくれたことが――」
「あの時は君が酔っ払ったから、仕方がなくだ!」
「はーい、分かっていますよー」
寮の近くまで送る帰り道、特に会話はなかったが、フィリアはとても楽しそうだった。
私の横か一歩前を足取り軽く歩き、時折振り返っては満面の笑みを浮かべる。
ついこの間、私の後ろでシャツの裾を離さず怯えるようにくっついていたのと、同じ子なのだろうかと不思議に思う。
「このあたりで大丈夫です。それでは、先生、おやすみなさい。シチュー、残った分はちゃんと明日の朝に食べてくださいね」
にっこりと笑って、彼女は小走りで寮へ帰っていった。
自宅に戻り、ドアを閉めると、室内の静寂が少しだけ寂しく感じられた。
「おかえりなさい」という、たった一言。
その暖かさは、晩御飯のシチューと同等か、あるいはそれ以上に心に染みる何かだったのだと、改めて思った。
――ただ、そんなほっこりとした気分も、そこまでだった。
ソファでようやくくつろいだその時、足元に見慣れない小さな巾着袋が転がっているのを見つけた。
何気なく中を開けると……フィリアのものと思われる、少し使い込まれた体操服が入っていた。
その瞬間、女子生徒特有の甘い香りが鼻腔を突き抜け、どうしようもなく、自分の中に潜む男としての生々しい欲を呼び覚ましてしまった。
私は慌てて巾着を閉じ、テーブルに置いて、大きく息を吐き出した。
待て、これはフィリアのものだぞ。私の生徒で、しかも中学生だぞ。一体何を考えているんだ。
いや、そもそも生物学的にはごく正常な生理現象で、そう思うこと自体は自然なことなのではないか?
……落ち着け。私は聖職たる教師である。生徒の私物を囲い込んで男の欲を満たすなど、絶対にあってはならない。
過去に、酔ったアリーシャ先生に「休んでいきましょう」と誘われた時、なぜ我慢できたのか。
あの時は脳裏にフィリアの顔がちらつき、「明日から彼女にどんな顔をして会えばいいんだ」というブレーキが働いて思いとどまったはずだ。
だが、なぜかフィリアなら「えへへ」と許してくれそうな気がして、明日からも普通に過ごせそうな気がしてしまうのは、なぜなんだ。
いや、ダメだ。ただでさえ公私の境界が曖昧で危うい関係なのだ。ここで一線を越えては、本当に破滅する。
本を開いて気を紛らわそうとしたが、視界の隅の巾着袋が気になって仕方がない。
「はぁ……本当にあいつは……なんてものを置いていきやがる……」
教師と生徒、師匠と弟子、世話される側とする側、男と女、大人と子供。
顔は確かに可愛いが幼すぎるし、外見だけなら好みの女子は他にもいる。
では、なぜこの体操服にこれほど心が乱されるのか。
人間とは、なぜこんなにも矛盾した気持ちを抱えるように設計されているのか。
男とは、かくも生きづらい生き物だと、ほとほと呆れてしまった。
結局その夜、私は答えの出ない壮大な哲学から、しょうもない男子中学生の妄想まで、ぐるぐると考え続け、ほとんど眠ることができなかった。
倫理と欲望の狭間で自己嫌悪を繰り返す、ひたすらしんどいだけの夜だった。
翌日。午前中の授業を終え、準備室の自席でぐったりと机に突っ伏していると、あの呪いの巾着袋の主が、いつものように姿を現した。
「あー……ソファーの上の、それ。昨日忘れてたよ……」
ようやく呪いのアイテムを手放せた、凄まじい安堵感が全身を駆け抜ける。
「ええと……その……ごめんなさい……」
なぜか、ひどく反省しているような声音だった。
「なんでフィリアが謝るのさ?」
「……あ、えっと……コーヒーでいいですか?」
午後はフィリアが多めに淹れてくれたブラックコーヒーを胃に流し込み、気力だけで授業を乗り切った。
そして放課後、準備室へ戻るなりソファに倒れ込み、泥のように眠りへ落ちていった。
目が覚めたのは、フィリアに優しく起こされた午後六時前。
私の顔をすぐ上から覗き込む彼女。
頭の後ろには、かすかに柔らかく、ほんのりと温かい感触があった。
「どうでしたか、私の膝枕は。いつも先生にしてもらってばっかりだったので……たまには……いいかなって……」
その時。彼女の膝枕が、ごく自然な、当たり前のもののように思えたことが、自分でもひどく不思議だった。
たかが布切れの体操服にあれほど理性をかき乱されたのに、それより遥かに密着度合いの高い、生身の彼女の『膝枕』では、これほど心が穏やかに、深く落ち着いたのは、なぜなのか。
「んー……よく分からないや……」
正直な言葉に、フィリアは残念そうな顔をした。慌てて付け加える。
「でも、もの凄くぐっすり眠れたのは間違いないよ。ありがとう」
「……それなら、良かったです」
優しく微笑む彼女を見つめながら、もしかしたら私は、この中学三年生の少女の手のひらの上で、都合よく転がされているだけなのではないか――そんな奇妙な感覚が、ふと胸を過った。
前世で読んだ『西遊記』。
己の全能を信じてお釈迦様に挑んだ孫悟空が、世界の果てまで飛んだつもりが、結局は相手の掌から一歩も出られておらず、五行山へ閉じ込められてしまった、あの話をなぜか思い出す。
自宅で世話を焼かれ、体操服で心をかき乱され、コーヒーで生き延びさせられ、最後は彼女の膝枕に収まる。――すべては、お釈迦様の手のひらの上。
どれだけ足掻いても、私はもうここから逃れることは叶わないのではないか。
抗いがたいが酷く優しくて、そして何より疲れる、そんな不思議な一日だった。




