第35話:一番弟子は遥か高みに行ってしまった
「んーーーー」
四月、春休みの朝。私が神聖学準備室の椅子に座ると同時に、大きな背伸びを一つした。
朝には強くないため、私の身体はまだまだ起ききっていない。
「ええと……神聖学教育改定要項の確認と、今年度の教育計画、それから教科書の……」
今日一日のタスクを頭の中でリスト化していると、特にノックの音もなく、すたすたと部屋に入ってくる少女が一人。
少女は何も言わずにソファへ鞄を置くと、そのままコンロの方へと向かう。
小さく響く戸棚のドアを開ける擦れる音。それに続く、少し大きめに響く、ポットに水を入れる音。
しばらくすると、部屋の中に香ばしい匂いが漂ってきた。
まだぼーっとする頭で神聖学教育改定要項を眺める。その視界の端に、コースターに乗せられた雄猫のマグカップを置く、白くて小さな手が映った。
私はそのマグカップ一杯に注がれた、まだ熱いコーヒーを啜る。
口当たりのいい、苦味が少なくてフルーティーな香りと、微かな酸味が鼻腔を突き抜けた。
コーヒーが身体にじわりと染み渡っていき、ゆっくりと頭が冴えてくるこの感覚が、何とも心地よい。
少女もソファに座り、自分のノートを開いた。
そこからは、本当に静かな時間だけが過ぎていった。
コーヒーのおかげで少し冴えてきた頭で、神聖学教育改定要項の内容と授業ノートの内容の差分を確認する。最新の研究内容や、以前のやや曖昧だった理論が更新されており、授業ノートに訂正を入れたり、内容を突き合わせていったりする地味な作業だ。
遠くからは、グラウンドで午前中の練習を開始した運動部の掛け声が聞こえる。
その少し手前には、ペンを走らせる音と、ページをめくる音。
時折「んっ」と軽い背伸びでもしたのだろうか、ソファの方から小さく漏れる彼女の吐息。
一時間ほどが過ぎただろうか。一度トイレに行くために席を立ち、彼女の横を通り過ぎたが、頭を上げることなく、ずっと複数のノートの間で視線を往復させていた。
私も自席に戻ると、再び作業を再開する。
またしばらくすると、今度は少女が立ち上がり、コンロの方へ向かった。
「コーヒー、冷めていますが、おかわりいりますか?」
「ああ、うん。いただくよ」
おそらく、これが午前中に交わした、私たちの唯一の会話だった。
そこから、昼のチャイムが鳴り終わり、
「お弁当、食べましょう」
と声をかけられるまで、本当に穏やかで静かな時間が過ぎていった。
新しく淹れてくれた紅茶と、お弁当箱の横に添えられた、私専用の箸箱。
お弁当の蓋を開けると、ハーブなどを乗せてグリルされた魚を中心に、たっぷりの野菜と、うさぎの形に剥かれたリンゴが添えられていた。
もう一つの箱を開けると、この世界ではどうやって手に入れたのか、お米が入っている。
とはいえ、前世の日本のようなもっちりとした白米ではなく、リゾット風の柔らかい炊き上がりだ。
「あ、お箸より、スプーンの方が食べやすいですね。ちょっと待っていてください」
彼女はコンロの方にスプーンを取りにぱたぱたと走っていき、すぐに戻ってきた。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
久しぶりに口にするお米が、少し疲れ気味だった私の胃にとても優しく染み渡る。
「とても優しい味だね。最近少し疲れ気味だったから、こういうのは本当に助かるよ、フィリア」
そう伝えると、フィリアは満面の笑みを浮かべ、心底嬉しそうにはにかんだ。
「今日は午後からは、ちゃんと私の数学に付き合ってくれる約束ですからね」
「分かっているよ」
「最近あまりできていなかったので、いっぱい聞きたいことがありますからね!」
フィリアはもの凄いやる気に満ち溢れていた。
お弁当を食べ終え、他愛のない雑談を挟んだ後の午後からは、午前中とは打って変わって、もの凄く濃密な議論が繰り広げられることとなった。
最近の彼女は、純粋な数学の問いよりも、その数学の体系を魔法術式に接続するとどうなるか、という応用議論を持ち込んでくることが多い。
「つまり、以前教えてもらった量子的な概念――微精霊のマナの確率的な状態、そのオンとオフの状態を『重ね合わせ』として捉えることで……」
「まあ、理屈としては分かるけど、さすがにちょっと飛躍が大きすぎるかな。まず、微精霊が本当にその重ね合わせ状態を保持し続けられるのかい?」
「そこは、確かに直感的です。ただ、微精霊のマナそのものは状態が安定しないというのはよく知られている話ですし、直感的には量子的な振る舞いをしている『波のようなもの』とするのが妥当だとは思えるのですよね……」
「仮にそこを前提として進めるとしてもだ。実際問題、微精霊の状態誤差をどうやって相殺し、最終的なマナの状態を出力させるんだい?」
「そこなんですよね……。やっていること自体は複素行列のパズルみたいなことなので、そこまで難しくはないのですが……」
「そもそも、その誤差を相殺するための術式を、魔法陣として描くこと自体が物理的に成立しないだろう。魔法陣として固定して記述してしまった時点でマナの状態が確定してしまうから、確率的な振る舞いは消えてしまうんじゃないか?」
「はい。だから、そもそも魔法陣――まあ、これが複素行列の役割を果たすのですが、それを、空間を満たす微精霊そのものの中に直接記述できれば、やれなくはない、みたいなところかなと思っています」
「だいぶ理論が飛躍していると思うが……。それに、現状では我々がほぼ干渉し得ない微精霊の群れに、どうやってそんな高難度の記述をさせるんだい?」
「それは……一定以上の力を持つ大精霊にお願いしたら、やってくれるのでは?」
「いや……フィリア。それができたら苦労はしないよ。我々が精霊たちと対話する手法なんて、現状は固定の魔法陣か、せいぜい詠唱の術式だけだ。だから理屈の上では可能性があっても、現状の技術ではそれは絶対に無理だよ」
「そこは……うーん、それはそうですが。実装できないことと、理屈の上で可能なことはまた切り分けて考えるべきです。私は先生と、まずは理論上のお話をしているのですから」
「だとしてもだ、現状の課題としては――」
本当に、そんな次元の議論をぶっ続けで三時間ほどやっていた。
さすがに喉が渇いたので、十五分の休憩を挟み、そこからまた二時間近くも同じような会話を繰り返した。
フィリアはその内容のすべてを、事細かにノートに書き留めていた。それも雑なメモ書きなどではなく、しっかりと厳密な数学の記号を用いて体系化されている。
私がこの世界に来たばかりの頃に書き殴った、穴だらけの日本時代の教科書の劣化コピー。それが、いつの間にかフィリアの手によって穴埋めされ、数学としても、魔法体系としても遥かに美しく完成されているものが非常に多かった。
もはや、私の方がフィリアから学ぶことの方が多いのではないか――そんな錯覚すら覚える時間でもあった。
本当に、私の一番弟子は私を追い越して、はるか高みへと手を伸ばしている。
それでも、その規格外の天才が、私とこうして議論をして、子どものように楽しそうにしてくれていることに、私は教師としての無上の誇りを感じていた。
少しだけ、歪な承認欲求を満たされるような、そんな愛おしい春の午後だった。
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