第23話:はじめて同僚と、それも女性と飲みに行ってしまった
一学期の最終日、私は職員室で一人の女性教師に話しかけられた。同い年くらいだろうか、栗毛色の髪をした、少し可愛げのある女性だ。
「あの……エリアス先生。今までご挨拶もほとんどせずに、大変失礼いたしました」
「あっ……ど、どのようなご用件で……しょうか……」
久々の、それも大人の女性との会話に激しく戸惑う。
フィリアには「自信を持て」と偉そうに言っている人間が、この有り様だ。
「私、フィリアさんのクラスの担任、アリーシャ・ハウゼンです。去年から二年間、担当させていただいています。あの……もしよろしければ、今日の夜、一緒にお食事でもいかがですか? フィリアさんのお礼もしたいですし、エリアス先生とは一度、色々とお話ししてみたくて」
「えっ!? 食事……ですか? わ、私と?」
女性から食事に誘われた経験など、二つの人生の記憶をひっくり返しても一度もない。
「い、いえ、空いています……はい……」
「でしたらぜひ。十八時過ぎに伺いますね」
「あ、こちらから職員室へ伺います」
相手を歩かせるのが失礼だと感じたのか、フィリアとの鉢合わせを無意識に避けようとしたのか、私の口は勝手にそう動いていた。
夕方、フィリアが下校してしばらく後、十八時を回った頃に職員室へ向かうと、アリーシャ先生はすでに鞄を手に待っていた。
近くの居酒屋に入り、彼女はジョッキのビール、私は炭酸水で乾杯する。
「よかったんですか? 私だけ飲んでしまって」
「ええ、私はお酒が得意ではなくて。飲むとすぐ眠くなってしまうので」
実際、私はアルコールにひどく弱い。
白い肌がすぐ真っ赤になり、耐性がほとんどないのだ。
アリーシャ先生はジョッキの半分を一気に干すと、深々と頭を下げた。
「改めて、フィリアさんの件、本当にありがとうございました。あのフィリアさんを手なずけて、まともに指導できるなんて、そうそうできることじゃありません」
おかわりを頼みながら、ビールの勢いとともに、彼女のぶっちゃけトークが加速していく。
「私、去年の春、本当に悩んでいたんです。初めての担任で右も左も分からない中、いきなり担当したクラスにフィリアさんがいて。一度、授業の後に質問に来てくれたんですけど、言っていることが高度すぎて……何を考えているのかわからなくて、うまく答えてあげられなかった。そうこうしているうちにクラスで色々あって、フィリアさんが浮いてしまって、いつの間にか学校に来なくなっちゃったんです」
彼女は二杯目に口をつけ、苦笑する。
「私、大した家柄の出身でもないから、お偉い方のご令嬢たちに強く言えなくて。いじめのターゲットが成績優秀な特待生で、いきなり登校拒否。学年主任には管理責任を鬼詰めされて……。フィリアさんの部屋にも何度も足を運んだんですけど、完全に取り付く島もなし。少し話したら『私なんか相手にならない』とばかりに、私の前でずっと本を読み始めるんですよ。もう、なんで初めての担任でこんな問題物件を引き当てちゃうんだって、夜な夜な枕を濡らしました」
彼女はビールを喉に流し込み、私を真っ直ぐに見つめた。
「そしたら、ある日突然フィリアさんが学校に戻ってきた。何があったかは知らなかったけど、私は本当に救われたんです。最近になって、エリアス先生が裏でフィリアさんを匿ってご指導されていたって知って……だから先生って本当にすごいなって。純粋に気になって、今日こうしてお誘いしたんです」
お酒の勢いでずけずけ言うが、不思議と嫌味がなく、むしろ好感が持てた。
「そう……でしたか。ですが、私は指導らしい指導はしていませんよ。居場所を貸しただけで、あとは彼女が勝手に学んだ。たまたまダイヤモンドの原石を最初に拾っただけです」
すると彼女は、少し不満そうに言った。
「その原石を拾い上げて、勝手に磨かれるようにした。それが十分、途方もなくすごいことなんです。私なんて、目の前に転がってきたダイヤを持て余して放り投げた人間ですよ。先生がいなければ、彼女は誰の手にも届かないところで埋もれていたかもしれない。……エリアス先生は、教師としてもっと自信を持たれるべきです。正直、めちゃくちゃ憧れます」
まっすぐにそう告げられて、私ははっとした。「大したことをしていない」と卑下していた行動も、誰かの目から見れば、私にしかできなかった救いだったのだと。
「……ありがとうございます。救われます。ただ、それでもあの子との距離感は難しく、未だに悩んでばかりです。いじめの心配がなくなった今でも、神聖学準備室に通い詰めさせることが、本当に彼女の将来のためになるのか、分からなくなるときがあります」
「……あ、一部の連中から『ロリコン教師』なんて陰口も叩かれてましたけど、やっぱり生徒とはいえ異性として意識しちゃうものなんですか?」
直球で言われると、さすがに心にダメージが残る。
「あっ、すみません! ひどいこと聞きました。でも私、こそこそ陰口を言うやつらが大嫌いなんです。文句があるなら堂々と本人に言えって。陰湿ないじめとか貴族の上下関係とか、本当に反吐が出そうで……って、また自分語りしちゃった。で、実際どうなんです?」
本当によく喋る人だ。だが、裏表のない人となりに、不快感はなかった。
「女性として意識することはありませんよ。教師と生徒という一線にはかなり神経を使っています。ただ……子どもが親に向けるものか、別の何かかは測りかねますが、彼女から好意を向けられているのは自覚しています。だからこそ、私なんかに執着せず、広い世界を見て、多くの人と関わり、将来は国のために羽ばたいてほしいというのが本音ですね」
「エリアス先生って、呆れるほど真面目で優しいんですね。それ、絶対モテるでしょ?」
「人生で一度もモテたことなんてありませんよ」
「えー、嘘だあ!」
その後も他愛のない話で盛り上がり、気づけば夜も更けていた。
会計を済ませて外に出ると、アリーシャ先生はなかなかの千鳥足で、私の肩にずっしりと寄りかかってきた。
「あー……すみましぇん……あたし、もう眠たくてぇ……どこかで休んでいきましょ……」
夜風に乗って、汗とアルコール、シャンプーが混ざり合った大人の甘い香りが鼻腔をくすぐる。寄りかかる彼女の、少しはだけたブラウスの隙間から、大人の肉体が覗く。よくある大人のふしだらなイベントの渦中に、今まさに自分がいる。
だがそのとき、私の脳裏をフィリアの顔がよぎった。
『……ここで流されたら、明日からあの子に顔向けができない……よなぁ』
それがひどく恐ろしい裏切りのように思えて、私は一歩を踏み出すことを思いとどまった。近くのホテルに駆け込み、ボーイの手を借りて彼女を部屋まで運ぶと、宿泊代金だけを全額支払って、私は足早に帰路に就いた。
『……少しだけ、もったいなかったかな』
人生初のハプニングに終始たじたじだった飲み会は、こうして幕を閉じた。
翌日の午前中。朝から準備室を訪ねてきたフィリアと、何気ない平穏なひとときを過ごしていると、激しいノックと共に扉が開いた。入ってきたのは、アリーシャ先生だった。
「エリアス先生! 昨日は本当に、本当に、失礼いたしました……っ! 私、お酒が入ると記憶が飛ぶタチで……お食事代だけでなく、ホテルの代金まで全部出していただいたと! 本当にごめんなさい!」
顔を真っ赤にして何度も頭を下げ、「これ、昨夜のお詫びとお代です!」と、小さな封筒を机に置いて嵐のように去っていった。
中には小金貨が一枚と、一枚の便箋。
『昨日は大変ご迷惑をおかけしました。でも、すっごく楽しかったです。また飲みに行きましょう』
……嫌な予感がして、恐る恐る振り返る。
そこには、神聖学準備室の室温を急降下させるほどの、凄まじいマナをまとった一番弟子が立っていた。金色の瞳は完全に色を失っている。
「……昨日。ホテル。アリーシャ先生と。お酒飲んで……先生、詳細な説明を要求します」
私は浮気を疑われた夫のごとく必死に弁明したが、それも虚しく、その日一日は、フィリアの冷徹な取り調べと「私も先生と食事に行く」というわがままに付き合わされる、散々な夏休みの幕開けとなるのだった。




