第20話:二人のディナーが散々なものになってしまった
球技大会から一、二週間。フィリアは事あるごとに、何かに怯えるように神聖学準備室へ逃げ込んでくるようになった。
あの日、全校生徒の前であれだけのパフォーマンスを見せたのだから無理もない。部活の勧誘や、好奇心で彼女に近づこうとする者が後を絶たないのだ。
最近では「準備室にフィリアがいる」という噂を聞きつけて訪ねてくる生徒もいるが、誰一人として彼女を見つけられずに去っていく。彼女がそこに「いない」のではない。高度な認識阻害魔法で風景に溶け込んでいるのだ。相当なマナを込めて視認しようとするか、特殊な知覚能力がない限り、その存在に気づくのは難しい。
心配して見に来たコーデリアによれば、授業中は席にいるのに、休み時間になると忽然と姿を消すらしい。誰が言い始めたか、フィリアには「白鹿の魔女」というあだ名がついていた。見つけた者には幸運が訪れるという伝説の珍獣になぞらえた名前だ。
「……行ったよ、白鹿の魔女さん」
「先生までその名前で呼ばないでください……」
フィリアがふくれっ面で、ソファの上に姿を現す。
「そうかな? いいあだ名だと思うよ。だって、毎日君を見ている私には、ものすごい幸運が舞い込んでいるってことだろう?」
「えっ……」
ハッとした顔で、耳まで真っ赤に照れ出す。
「せ、先生が幸せになるなら、まあ、いいですけど。でも、魔女っていうのはやっぱり嫌です」
「それより先生。今日は『優勝のご褒美』の日だって、忘れてませんよね?」
「ああ、もちろん覚えているよ」
「えへへ、楽しみです。……ちゃんとお財布にお金、入ってるか確認しておいてくださいね?」
不安になって財布を覗き込む私を見て、フィリアがくすくす笑う。
「先生のそういうところ、やっぱりかわいいです」
そう言うと立ち上がり、ぱたぱたと片付けを始める。
「今日は早めに帰って準備しなくちゃですから、早めの店じまいです」
嬉しそうにする姿は、一年前にがちがちになってお出かけ一つできなかった少女とは思えなかった。
「フィリアも成長したものだね」
「はい! 先生のおかげで」
満面の笑みを浮かべるフィリア。その成長に、改めて感慨深いものを感じた。
七月の初め。一年で最も日が長い時期で、午後七時前でも空はまだ明るい。待ち合わせの広場に五分前に着いたが、彼女の姿はない。
そう思った瞬間、背後から声をかけられた。
「先生、ここですよ」
そこには、いつかの初めてのお出かけで買ってあげた、黒のブラウスと白のロングスカートに身を包んだフィリアがいた。油断していたとはいえ、私も認識阻害に気づかなかった。
「びっくりしたよ。まさか外でも魔法をかけたままだったなんて」
「大事なディナーですから。誰かに邪魔されたり、トラブルに巻き込まれたりするのは嫌なんです。……それに」
フィリアは私の腕にぎゅっとしがみついた。
「教師と生徒が夜にお出かけなんて、世間的にはよくないですから。これなら誰も私たちに気がつきません」
「……理屈はわかるが、恥ずかしいから手を離しなさい」
「嫌です。誰も見ていないんですから、大丈夫ですよ。さあ、行きましょう!」
私は彼女を「親戚の娘」という体で歩き出した。案内したのは、庶民には少し敷居の高い、落ち着いたレストランだ。
「こんなところ、初めてです! 楽しみ……!」
席に通され、ウェイターが飲み物を尋ねる。
「私はこの白ぶどうのジュースをください」
「私も同じもので」
「先生はお酒、飲まないんですか?」
「生徒の前でお酒を飲むのは、教師として失格だよ」
「ふふ、そういうところ、本当に先生らしいです」
やがて、ワイングラスに注がれた黄金色の液体が運ばれてきた。
「では改めて。フィリアの優勝と、MVP受賞を祝して。乾杯」
「かんぱーい!」
喉が渇いていたのか、フィリアは白ぶどうのジュースを一気に飲み干した。
「ふぅ……とっても冷たくて美味しいです。先生、それももらっていいですか?」
「いいよ。まだ口をつけていないからね」
彼女は私のグラスからもう一口。……だが、一品目のエビのサラダが運ばれてきたとき、異変が起きた。
「あれ……れ。しぇん、しぇーが……二人? ……あれぇ?」
突如、フィリアの顔が耳まで真っ赤に染まり、ばたんとテーブルに突っ伏した。
慌てて駆け寄る。尋常でない熱気と、浅い呼吸。
「まさか……急性アルコール中毒!?」
飲み残したグラスの残りを口に含むと、甘みの中に明確なアルコールの刺激。
『白ワインだ……。店が間違えたのか……!?』
私は迷わずジャケットを床に敷き、フィリアを横に寝かせた。
「精霊ヴィーラに願い奉らん。毒に蝕まれたこの者に浄化の光を――『キュア』!」
代謝を促すため身体強化と精神安定の魔法も重ねがけし、必死にさすってバイタルを確認し続ける。
やがて呼吸は落ち着きを取り戻した。
支配人や料理長から平身低頭の謝罪を受けつつ、案内された個室へフィリアを抱きかかえて運ぶ。
結局、彼女は私の膝の上で眠り続け、二人のディナーは私一人で冷めた料理をつまむ寂しいものになってしまった。
時間は経ち、閉店時間になっても、起きる気配はない。
「さて……どうしたものか」
彼女を背負い、店を出る。
夜の十時過ぎ。
この時間の女子寮に、教師の私が連れて帰るわけにはいかない。
認識阻害で忍び込む……いや、それこそ犯罪行為だ。
ホテルなど、倫理的にも社会的にも「死」を意味する。
医務室はこの時間、確実に閉門されている。
「うーん……仕方ない、か」
私は覚悟を決め、自分の住むアパートへと足を向けた。
『……もっと掃除しておけばよかった。洗濯物も溜まったままだ……』
夏の夜風と、耳元に届くフィリアの規則正しい寝息。
少しくすぐったい背中の重みを感じながら、私は予定外の出来事に深い溜息をつくのだった。




