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第1話:乙女ゲームの世界に転生してしまった

埃っぽい空気が肺に深く入り込み、私は小さく咳き込んだ。

立ち上がると、膝の裏に神聖学準備室の古びた革ソファの感触が残っている。視界に入るのは、乱雑に積み上げられた魔導書と、突如倒れたという前任者が残した、干からびた茶葉の入ったカップ。


「……さて、どこから手をつけるべきか」


口から出た言葉は、自分でも驚くほど自然なエリアス・ヴァン・アリスの声だった。

新規性のない研究を突き返され続けた「私」と、大聖堂での政治闘争に巻き込まれて左遷されてきた「エリアス」。二つの絶望が重なり合った結果、今の私は不思議なほど冷静だ。


準備室の重い扉を開け、廊下に出る。

六月の午後。窓から差し込む陽光は、日本のそれよりもどこか透明度が高いように感じられた。


「エリアス・ヴァン・アリス。攻略対象の一人、か……」


脳内のデータベースを検索する。

ゲーム内の彼は、理屈っぽく、ヒロインには真面目で堅物の「教育者」キャラだった。その裏側にあるのは、自己評価の低さと、知識へのプライド、そして私生活のだらしなさ……なるほど、今の私そのままだ。

皮肉なものだ。日本の大学院で「既存の知識の模倣」しかできないと断じられた私が、この世界では「神聖学」という確立された学問の講師として、完成された教科書を教える立場にいる。独創性よりも正確な知識のトレースが求められる、その最たる立場に。


中庭に出ると、初夏の風が通り抜けた。


ゲーム本編が始まる三年前、しかも赴任初日。エリアスとしての記憶にも、この学園のことはろくにインプットされていない。

しかし、目に入る景色の一つひとつが、一ヶ月夢中でやり込んだゲームのCGそのままだった。


「彼女は今頃、旦那さんと夕飯でも食べているんだろうか」


一瞬だけ胸が疼いたが、すぐに霧散した。

一方的な思い込みによる無様な恋の痛みさえも、この「エリアス」という人格が持つ冷淡な気質がコーティングしてくれているようだった。


日本での自分は、決められたルールの中でテストの点を取る競争では、だいたい勝ってきた。

だが、トップクラスの数学系大学院に通うことになった私は、そこで人生初めての挫折を知った。

引き籠もり、ネットゲームにハマる中で、私は同じクランの女性に恋をした。音声チャット越しの透き通った声と、嫌なことを忘れさせてくれる明るい性格に、一人で勝手に理想の女性像を重ねていた――今では、そう思える。


その彼女が猛烈に推していた乙女ゲームこそが、今私のいる世界――『聖女になりたいなんて誰が言った』であった。

オフ会を一ヶ月後に控え、私は共通の話題で"彼女"と語り合いたいという下心から、大学にも行かずにひたすらやり込んだ。

しかし、オフ会当日、その恋とも呼べない恋は一瞬にして崩れ去った。実際に会った彼女は三十過ぎのごく普通の女性で、別クランに所属する旦那さんと一緒に来ていたのだ。

その後は普段飲まないお酒を飲み、早々に切り上げて家のベッドに倒れ込み――気がついたら、この神聖学準備室にいた。そんなところだ。


校舎を一周し、時計塔の見える噴水広場までやってきて、私は足を止める。

生徒会と思われるメンバーが集まっていた。

その中で一人だけ目を引く、まだ幼さの残る少年。中等部の制服を着た彼は、三年後のゲーム本編で私と共に聖女と世界を救う冒険をする主要キャラクターの一人――この国の第一王子、ジュリアン・フォン・アストリスそのものだった。


「……いや、今はまだいいか……」


私は声をかけずに背を向けた。

今の私に必要なのは、攻略対象としての振る舞いでも、まだ入学すらしていない聖女を探すことでもない。まずはあの埃っぽい執務室を片付け、指導案を作り、この「神聖学」という数式のない学問の授業を無事にこなすことである。


面接で落とされ続け、研究室で居場所を失い、惨めな恋をした日本での私にとって、ここは皮肉にも「やり直しの効く世界」のように思えた。


少なくとも、この世界の神聖学に『数学的アプローチ』を持ち込めば……それはこの世界にとっての『新規性』になるかもしれない。

三年後、シナリオ通りに物事を進めれば、聖女と二人で神聖学の研究をする幸せな未来を築くことだって出来るかもしれない。


少しだけ、足取りが軽くなるのを感じた。

エリアスとしての記憶と、院生としての知識。この二つが交差する場所で、私は私のまま、この物語の「講師」を演じてみよう。

そう思いながら、私は学園の風景と記憶の中のCGを重ね合わせる散歩を、もう少し続けるのだった。

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