第0話:ヒロインとの出会いイベントが異常終了してしまった
「……よし、身だしなみは整ったな。多分」
神聖学準備室の、ひび割れた姿見に自分を映す。
二十八歳。前世の大学院生時代から変わらぬ不健康な顔色と、手入れをサボって少し伸びた髪。だが、今日ばかりは背筋が伸びる。
乙女ゲーム『聖女になりたいなんて誰が言った』の世界に転生して三年。
私は、その攻略対象の一人である、エリアス・ヴァン・アリス。
王立学校セント・ラプラス、高等部の神聖学講師という名の「左遷生活」を送りながら、私はこの日を、ゲームのシナリオが始まる日を待っていた。
教室の扉を開けると、そこには初々しい新入生たちが並んでいた。
そして、その中央。窓際から差し込む陽光を浴びて、ひときわ美しく輝く彼女が座っていた。
セレスティーナ・ブラン。
このゲームのメインヒロイン。
白磁のような肌、亜麻色の柔らかな髪。実物の彼女は、スマホの画面越しに見ていた数百倍も魅力的だった。
正直、私に恋愛経験はない。前世でも辛い人生を辿った。
教科書通りにしか生きられない。そんな私でも、攻略チャート通りの正しい選択肢を選びさえすれば、恋愛を成就させ、幸せになれるかもしれない。そう安易に考えていたのは、紛うことなき事実である。
一通りの神聖学の講義を終え、私は緊張を悟られないよう、できるだけ「理知的な教師」を装って彼女に声をかけた。
「は、はじめまして、セレスティーナさん」
「はじめまして、エリアス先生」
普段喋り慣れない美少女との会話に、妙に緊張してしまう。
「このたびは入学おめでとう。君が聖女として一人前になるように、大神殿からも格別の指導をするようにと言われているんだ。もし困ったことがあれば、いつでも準備室に来てほしい」
ゲーム通りの完璧なフラグ立て。
コミュ障気味の院生だった私だけに、その一言を言うだけで緊張が止まらない。
セレスティーナが「はい、エリアス先生! ぜひよろしくお願いします! 早速一つお聞きしたいことが……」と、イベント通りに話が進もうとした……その時だった。
――パキィッ。
空間に、ガラスが割れるような乾いた音が響いた。
直後、視界が真っ白に塗りつぶされる。
「……っ!?」
それは、暴力的なまでの神聖魔力の奔流。
本来、聖女の力とは温かく、包み込むようなものであるはずだ。
だが、今この場に満ちているのは、極限まで『圧縮』され、一切の冗長性を削ぎ落とされた、高密度で冷徹なまでの光の波。
エラーだ。ゲームシステムの強制終了を思わせる、異常な現象。
光が収まった時、そこには、セレスティーナを背後から射抜くような視線で見つめる、一人の少女が立っていた。
講堂のすべての人の視線はもちろん、学園を越えて、王都すべての注目が彼女に集まる。それほど異常な何かが、この瞬間に起きたのだ。
「フィリア……?」
フィリア・レオンハルト。
三年前、いじめから助けて以来、私の準備室に入り浸っていた教え子。
百四十センチそこそこの小柄な体躯。幼児体型で、どこか小動物を思わせる愛くるしいはずの少女。
彼女は、私に向けていた笑顔を、今は仮面のように貼り付けていた。
だが、その瞳だけは、計算し尽くされた殺意にも似た熱を帯びている。
「エリアス先生……。つまり、せ、聖女になるのなら、私も先生にいっぱい……その……『指導』してもらえるってこと……ですよね」
フィリアが、一歩、歩み寄る。
「でしたら、わ、私も聖女になりたい……です。いえ……なります!」
緊張しっぱなしの引きつった笑顔は、まったく笑っていない。
その瞬間、私はフィリアと過ごしてきたこの三年間のことを、走馬灯のように頭の中で巡らせた。
『待て……。このフィリアが聖女? 何を言っているんだ? この膨大な力は何? 彼女は一体、何をしたのだ!?』
私がフィリアを神聖学準備室に迎え入れてしまったこと、暇つぶしとコミュニケーション代わりに教えていた「数学」が、この乙女ゲームの世界を改変し、もはや取り返しのつかないところまで来ていたことに、この時の私はあまりにも無自覚であった。
◇◇◇
私はエリアス先生のことが、本当に、本当に大好きです。
先生の匂いが好き。
優しくて、見ていると心が落ち着く瞳が好き。
切れ長で、少し眠たそうなまぶたが好き。
落ち着いた、雨音みたいな話し方が好き。
低くて、いつまでも聴いていたくなる声が好き。
論理的で、頭がいいところが好き。
少し汗ばんだ、大きな手の温かさも、全部、全部好き。
長い首筋も、広い背中も、長い手足も。不健康そうな色白の肌も好き。
ズボンからシャツの裾が少し飛び出していたり、靴下に穴があいていたり……そんな、私にしか見せないだらしないところも好き。
切り揃えられていない長い爪も、集中するとそれを噛んでしまう癖も、可愛くて好き。
子どもの私が世話を焼くと、大人なのにと申し訳なさそうにしながら、結局は私に甘えてしまう……そんな先生が、大好き。
考え込んでいるときの真面目な顔。私が喜ぶと、一緒に喜んでくれる笑顔。
これだけ私が好意を向けても、ちゃんと教師と生徒としての一線を守ろうとする、不器用で誠実な先生のことが――心から、好き。
くすぐったいときに漏れるかすかな吐息も、髪の毛の一本一本も、爪の先に至るまで全部が好き。
たとえ肥溜めの中に落ちたとしても、その汚物が先生のものであるなら、私はこの上ない幸福を感じられる。それくらい、先生のすべてを愛してやまない。
……まだまだ、全然言い足りないけれど……
私をいじめから助けてくれて、神聖学準備室を私の居場所にしてくれたあの日から、三年間。
一緒に勉強した時間も、二人きりで静かに本を読んだ午後の日差しも。笑ったことも、泣いたことも。そのすべての瞬間が、私だけの大切な宝物。
でも、先生の恋心が私に向いていないことなんて、わかっていました。
それでも、私は先生を好きでいられるだけで、同じ時間を過ごせるだけで、これっぽっちも後悔なんてなかったのです。
改めまして。私の名前は、フィリア・レオンハルト。
王立セント・ラプラス学園、高等部一年生。田舎の貧乏貴族の娘。
どこにでもいる、何の変哲もない女学生……と言いたいけれど、それは嘘。
自分でも、私はかなり「変わった」人間なのだと思います。
私には、世間では「ギフテッド」なんて呼ばれるらしい、特殊な才能があります。
それは、精霊の声が聞こえること。
でも、これは私だけの秘密です。
幼い頃、精霊たちとおしゃべりしていた私を見て、周りの人たちは言いました。
「変だ」「おかしい」「気持ち悪い」「やめなさい」
それが原因で、ひどいいじめにも遭いました。
私が自分に自信を持てないのは、きっとそんな子ども時代の記憶のせいなのかもしれません。
だから、精霊さんと話せる力は、ずっと胸の奥に隠してきました。
独りで過ごした、暗い幼少期。そのおかげで、勉強だけは得意になりました。
その成績が認められて、三年前から特待生として学園の中等部に通えるようになったのですが……やっぱり、環境が変わっても、私が急に変われるわけではありませんでした。
王立学園でも私は孤立し、昔と同じように、いじめを受けるようになってしまって。
そんな絶望の中にいた私を救い出してくれたのが、エリアス先生でした。
先生は私に「居場所」をくれました。それだけじゃなく、私の知らない世界の理を教えてくれました。
その一つが、『数学』です。
ただの計算を超えて、この世界がどんな構造で書かれているのか。その美しさに、私と精霊さんたちは夢中になりました。
最近は、その数学を応用して、精霊さんたちと一緒に新しい魔法を作り上げることに夢中です。
具体的には、世界のマナ総量の九十九パーセント以上を占める微精霊たちのマナのゆらぎを、確率空間として……
一旦、難しい理屈はさておき。その中で完成した自慢の魔法が二つあります。
一つは、『いつでもどこでも先生を感じられる魔法』。
先生の周りのマナの状態をいくつかの基底に分解して圧縮し、私のもとへ空間転移させて、光として私の網膜に投射する。離れていても、先生が何をしているのかわかってしまう、そんな私だけの秘密の魔法。
悪いことをしているなとは思いますが……それでも先生には安全でいてほしいから、何かあったら助けてあげたいから……何より、一日中先生を感じていたいから、仕方がありません。
そしてもう一つは、『先生の頭の中を覗き見る魔法』。
先生から漏れる固有のマナの波形を解析して、干渉して、記憶の底を辿る魔法。
どうしても、先生が私のことをどう思っているのか知りたくて……こちらも罪悪感に震えながら、一度だけ実行してしまいました。
そこで見た先生の記憶は、あまりにも不可解なものでした。
一人の人格の中に、二つの記憶。
「ニホン」というまったく別の世界の記憶と、この「乙女ゲーム」の世界の記憶。
先生はその物語の中の攻略対象の一人で……そして、ヒロインである「聖女」と恋に落ちていくストーリー。
それを知ってしまったとき。
私の胸は、言葉にするのもおぞましいほど、どろどろとした黒い感情に支配されました。
大好きな先生が、私の知らない女の人と結ばれて、幸せになっていく。
『嫌だ。絶対に嫌。私を見て。私だけの先生でいて……!』
魔法で眠り続ける先生の胸に顔を埋めて、私はぼろぼろと涙をこぼし、嗚咽の声を上げました。
「ねえ……だったらフィリアが、その『聖女』になればいいんじゃない?」
精霊の一人が、私の耳元でそう囁いたのです。
「……そんなこと、できるのかな」
「できるよ。フィリアなら。だから、泣かないで」
私は、決意しました。
先生とヒロインの出会いを、その運命を、この手で書き換えてやるのだと。
「でしたら、わ、私も聖女になりたい……です。いえ、なります!」
先生とゲームのヒロインが初めて言葉を交わした、今日この日……
私は、先生が信じている「ゲームの筋書き」を根底から叩き折るために、姿を現しました。
大好きな先生に、私だけを見てほしい。
あの神聖学準備室で、また二人きりの時間を過ごしたい。
その一心で、私と精霊たちは、持てる最大限の力で『聖女の光』を再現したのです。
シナリオは歪み、セレスティーナさんとの邂逅イベントはそこで途絶えました。
『……よかった、うまくいった!』
自分で言うと悲しくなるけれど、小さな胸をなで下ろしたのでした。
しかし、私は、自分がしでかしたことの重大さを、本当の意味では理解していなかったのです。
――翌朝。
女子寮を出て校舎へ向かっていた私の前に、一人の青年が立ちはだかりました。
金髪の整った顔立ち。この国の王太子、ジュリアン・フォン・アストリス。
彼は見事な花束を差し出し、信じられない言葉を口にしました。
「……大聖女フィリア・レオンハルト。どうか、私の婚約者として、王太子妃になっていただきたい」
「……ふぇえええ!?」
私は、その場に立ち尽くしました。
みんなと張り切って『聖女の光』の出力を上げすぎたせいか、それとも『聖女』という役割をヒロインから奪ってしまったせいか。
先生を独り占めしようとした私の計算は、一瞬にして、最悪の方向へと狂い始めてしまったのです。




