第17話:一番弟子がヴァルハラの乙女になってしまった
この国の六月中旬は、前世の日本と違って梅雨がなく、抜けるような青空が広がる。窓を開け放たないと、そろそろ準備室の中も暑苦しくなってくる時期だ。
今日は学内の球技・陸上大会。校庭からは生徒たちの弾んだ声が風に乗って聞こえてくる。前世でもこの世界でも、私は中学までバスケットボールに打ち込んでいた。体育館から響くボールの音を聞くと、今でもどこか血が騒ぐ。
しかし、そんな運動日和だというのに、薄暗い準備室には猫背で机に向かう少女が一人。体操服にブルマという、ファンタジーの世界に妙に馴染んだ昭和スタイルだ。
「たまには身体を動かすのも悪くないと思うよ、フィリア」
「興味ないです。それに、私が参加しても足手まといになるだけですから」
視線も上げず、淡々と返ってくる。
「全員参加じゃなかったかい?」
「名目上は、です。一応バスケの補欠ですけど、この身長じゃ出る幕なんてありません」
「……運動しないと、背も伸びないぞ」
ぼそりと呟くと、フィリアのペンがぴたりと止まった。頬をぷくっと膨らませ、こちらを睨む。
「背なら、ちょっとずつ伸びてます! 体育もちゃんと真面目にやってますから……ムスーッ」
抗議するように私を睨みつけると、彼女は溜息をついて、また教科書に潜り込んでしまった。
その時だった。
『トントントンッ!』
激しく扉を叩く音と、慌てた女の子の声が響いた。
「エリアス先生! 大変です、至急お願いします……っ! フィリアも、来てください!」
扉を開けると、肩で息をするコーデリアが立っていた。
体育館へ急行すると、赤髪の少女――フィリアと同じクラスのケーシーが、足を抱えて苦痛に耐えていた。
「ケーシーさんの足を……お願いします!」
私は患部に手をかざした。
「精霊ヴィーラに願い奉らん……傷ついたこの者に救いの光を。――『ヒール』」
捻挫の腫れは引いたが、ケーシーは冷や汗を流し、胸を押さえて呼吸を乱している。隣のフィリアが冷静に呟いた。
「……過呼吸ですね」
「ああ。――同じく精霊ヴィーラに願い奉らん。この者の熱き心を冷ます叡智の安らぎを。――『エスナ』」
背中に手を当て、精神を落ち着かせる魔法を発動する。やがて呼吸が整い、私たちは彼女を医務室まで運んだ。
「魔法で治したとはいえ、今日と明日は運動禁止だ」
念を押して外へ出ると、フィリアとコーデリア、クラスの女子たちが待っていた。
「それでね、フィリア」コーデリアが申し訳なさそうに口を開く。「この後のバスケの試合、あなたに出てほしいの」
「えぇっ!? わ、私が……!?」
案の定、フィリアは私の後ろに隠れた。すると、他の女子から刺々しい声が飛ぶ。
「せっかく優勝を狙えると思ったのに、代わりがこれ?」
「どうせコートの隅で突っ立ってるだけでしょ」
フィリアの身体が、私の背中で強張り、震えだす。
「それは言い過ぎですわよ、お二方!」
「……君たち、少し言葉を慎みなさい」
コーデリアと私が割って入るが、彼女たちは鼻で笑う。
「事実を言ったまでですわ」
コーデリアが怒りで顔を真っ赤にした、その時。
「……大丈夫。コーデリアちゃん。それに、先生も」
フィリアが私の影から、一歩、二歩と前に踏み出した。驚く女子生徒たちを真っ直ぐに睨み返す。
「コーデリアちゃん、私のために怒ってくれてありがとう。……でもね。私、先生やコーデリアちゃんに守られてばかりいるのは、嫌……です」
「ふん、生意気ね。あなたに何ができるっていうの?」
授業中に難問を解く時と同じ真剣な顔で、フィリアは答えた。
「できるかできないかなんて関係ありません……やるんです」
「口だけならいくらでも言えますわ。行きましょう」
二人は吐き捨てて体育館へ去っていった。
「大丈夫かい、フィリア? 無茶はしなくていいんだよ」
覗き込むと、彼女は少し涙目だったが、その表情は不思議と自信に満ちていた。
「……誰に言ってるんですか。私はエリアス・ヴァン・アリスの一番弟子ですよ?」
そう言うと、彼女は大きく息を吸い込んだ。周囲の空気がピーンと張り詰め、ひりつくような魔力が膨れ上がる。
『――筋力上昇、速度上昇、跳躍力上昇。聴覚、視覚、反射速度……すべて最大出力で同期』
職業柄、私には分かる。これは高度な短縮詠唱――自己強化魔法の重ねがけだ。コーデリアは、七色の魔力に包まれて光り輝くフィリアに、眼鏡の奥の目を丸くして立ち尽くしている。
神聖魔法の基礎は教えたが、この短時間でこれほどの魔力を重ねがけするとは。それでも私はどこか、フィリアならできて当然だという根拠のない信頼を抱いていた。
「先生、私の活躍、ちゃんと見ていてくださいね。……あと。もし優勝したら、今日の夜、美味しいレストランに連れて行ってください」
「優勝できたらね」
「約束ですよ」
にっこり笑うと、彼女はまた大きく息を吸い、目を閉じて小さく囁いた。
目を開けた瞬間、猫背だった背筋がすぅっと美しく伸びた。金色の瞳には赤みが混じり、いつもの内気な少女はどこにもいない。そこにいたのは、戦場を支配するヴァルハラの乙女のような、威厳に満ちたフィリアだった。
「い、行くよ、コーデリアちゃん」
いつも後ろを歩いてばかりのフィリアが、コーデリアの手を取って、その前を歩いて体育館へ向かっていく。
『……守られてばかりは、嫌か』
一年前、いじめられて何も言い返せずに立ち尽くしていた少女を思い出す。あの一番弟子が、今日は堂々と私と友人の怒りを背負い、自らの足でいじめに立ち向かおうとしている。
彼女の成長が、何よりも誇らしく、嬉しかった。




