第10話:攻略対象の1人が魔術に関しての思いを熱弁してしまった
フィリアがこの神聖学準備室に入り浸るようになって、半年近くが過ぎようとしていた。夏休みを除いても約五ヶ月、彼女はほぼ毎日、放課後になると当然のようにここへやってくる。
数学を教えたり、なんの変哲もない談笑をしたり。そうしていると、なぜ中等部の一年生が高等部のこの部屋に入り浸っているのか、その本来の目的を忘れてしまいそうになる。
掃除や洗濯、書類整理にお茶汲み、ちょっとした校内手続きの代筆までこなしてくれる。頼んだことも、来る条件として義務づけたこともないのだが、フィリアが自発的かつ嬉々として世話を焼いてくれるので、ついつい甘えきってしまっている。
そもそもここは、クラスで浮き気味な彼女の「居場所」であり、いじめやトラブルの際の「緊急避難場所」として提供したはずだった。
何事もなく同級生たちと日常を過ごし、ここへ来なくなることこそが、彼女にとって一番の幸せなのかもしれない。
秋も深まり、文化祭が終わった十一月中旬。ゲーム本編のシナリオ開始から、二年と四ヶ月ほど前のことだった。
「せ、先生……っ! た、助けて……っ!」
バンッと勢いよく扉が開き、ついにこの部屋が初めて「緊急避難場所」として正しく(?)機能する日がやってきた。
フィリアは小さな身体をソファの陰に滑り込ませ、頭を抱えてうずくまった。何かにひどく怯えているが、泣いてもいないし、怪我もしていない。物理的な暴力やいじめの類ではなさそうだ。
「わ、私をたずねる人が来ても……ぜっ、絶対に居ないって答えてくださいっ!」
まるで借金取りから逃げてきた債務者のような口ぶりだ。何があったのか問い質そうとした、その刹那。
トントントンッ
几帳面で、どこか威圧感のあるノックの音が室内に響いた。
「ひぃっ!」
フィリアはさらに体を丸め、両手で耳を塞いだ。
私はため息をつき、ドアを開けた。そこには銀縁の眼鏡をかけた、いかにも秀才といった顔立ちの中等部の少年が立っていた。制服に皺一つない。
「突然失礼いたします。こちらに、フィリア・レオンハルト君は逃げ込んで……いえ、来ておりませんか?」
背中越しに「居ないって言ってぇぇえ!」という強烈な念を感じるが、見るからにお貴族様のご子息を無下にするわけにもいかない。
「えーっと……見るからに怯えていて、逃げてきた、といった生徒なら心当たりがありますが」
「そうですか……!」
少年は落胆するどころか、なぜか悔しそうに眼鏡を押し上げた。
「私でよろしければ、事情を聞かせていただけませんか?」
「……分かりました。立ち話もなんですから、中庭のベンチでお話ししましょうか」
私はフィリアに安心させるよう目配せをしてから、準備室に鍵をかけた。
「改めて。私は高等部で神聖学を教えている、エリアス・ヴァン・アリスです」
「私は中等部一年、カスピアン・フォン・ローゼンベルクと申します」
その名前に、私はピンときた。彼もまた乙女ゲーム『聖女になりたいなんて誰が言った』の攻略対象の一人。後に魔道士として主人公の聖女セレスティーナを支える、前宰相・ローゼンベルク伯爵家の次男だ。魔術に関しては誰よりも真面目で、ゲーム本編でもセレスティーナと新たな術式を編み出す、インテリ・メイジ枠のキャラクターである。
「さっそくですが、エリアス先生。あなたはフィリア君に、『魔法体系における共通理論論考』について、何か特別な指導をされましたか?」
以前、古本屋でフィリアが立ち読みしていた、聖女ルーティアの本のことだ。
「……ええ、確か一、二ヶ月前、準備室にあったその本をフィリアが読んでいたことはあります。ただ、内容そのものを直接指導したわけではありません。関連した基礎的なことは、少し話したかもしれませんが……」
私は曖昧にその場を濁した。
「直接指導はされていないっ!? 本当ですか!?」
カスピアンは驚愕に目を見開いた。
「では、あの完璧な回答を……彼女は独学で……凄いっ!」
そして突如、熱を帯びた目で私を見据えた。
「先生、お願いです! 私がフィリア君と魔術理論について議論できるよう、どうかお取り計らい願えないでしょうか!」
「えっと……つまり君は、フィリアと魔法理論の話がしたかったのに、熱が入りすぎて怯えさせ、逃げられてしまった、と?」
「はい……っ。怯えさせてしまったのは、ひとえに私の不徳の致すところ。ですが、同級生であれほどの学友は初めてなのです。私と同じ目線で、いや、それより先を見据えているかもしれない彼女と、もっと魔術について語り合いたいのです!」
その圧倒的な圧に、私はのけぞりそうになった。そうだった、カスピアンは誰よりも魔術に情熱を傾け、ひたすら突き進む男だ。
その熱意を向ける相手は、本当にフィリアでいいのか――心の中で疑問を呈する。グイグイ来る彼の性格は、コミュ症気味のフィリアと相性が悪そうだ。
しかし、フィリアに同級生の友人ができるのは良いことだろう。それが前宰相家の次男ともなれば、学内での立場や安全の強力な後ろ盾にもなる。
彼に悪意はなく、その生真面目な性格もゲーム通りなら信頼できる。
「……分かりました、カスピアン君。君が純粋に彼女と魔法の議論をしたいこと、そして驚かせてしまったことを謝罪してくれたこと。私の口から、ちゃんとフィリアに伝えておきましょう」
カスピアン少年は背筋をピンと伸ばし、深く頭を下げた。
「是非とも、よろしくお願いいたします!」
彼は満足げな足取りで、中等部の校舎へと帰っていった。
準備室に戻ると、フィリアはまだソファの陰でカタカタと震えていた。私一人だと確認すると、恐る恐る顔を出す。
「……あ、あの……。か、帰りましたか……?」
「うん。大丈夫だよ、帰っていった」
「あ、ありがとうございます……っ。とっても、助かりました……ふぅー」
小さな胸が安堵の吐息とともに下がり、強張っていた表情がふにゃりと和らぐ。
「それでは、お茶を淹れてきますね。あ、コーヒーとどっちが良いですか?」
何事もなかったように、嬉々として私の世話を焼き出すのであった。




