白無垢①
タワーマンション最上階。夜景がガラス一面に広がるリビング。
玄関の扉が開くと同時に、佐川が一歩前に出て深く頭を下げた。
「お帰りなさいませ、旦那様」
その後ろから、艶やかな黒髪をゆるくまとめた妻が微笑む。
「お帰りなさい、あなた」
ぱたぱたと小さな足音が響く。
「パパーっ!」
娘の結が両手を広げて駆け寄る。夫はネクタイを緩めながらしゃがみ、結を抱き上げた。
「ただいま、結」
しかしその表情は、どこか上の空だった。
妻はそれにすぐ気づく。
ソファに腰を下ろした夫の前に、佐川が静かにグラスと氷を用意する。妻が琥珀色のウィスキーを注いだ。
「どうぞ」
夫は一口含む。氷が静かに鳴る。
妻は向かいに座り、じっと見つめた。
「……何か、考え事?」
夫はしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「今日な、部下から結婚の報告を受けた」
「まあ……おめでたいことですね」
「ああ。式の写真も見せられた」
妻は微笑みながらも、胸の奥がわずかに揺れる。
夫はグラスを揺らしながら言った。
「白いドレスで笑ってた。隣で新郎が誇らしげに立ってた」
少し間を置き、真っ直ぐ妻を見る。
「俺たち、式挙げてないだろ」
空気が静まる。
結は佐川に連れられ、少し離れた場所で絵本を広げている。佐川は静かに視線を落とし、会話に耳を立てることはない。ただ、気配はそこにある。
妻は穏やかに言った。
「そうね。必要ないと思っていましたから」
「本当にそうか?」
低い声。
妻は目を伏せる。
夫は続けた。
「写真だけでも、撮りたいと思った」
妻は驚いて顔を上げた。
「……写真、ですか?」
「ああ。式はしなくていい。派手なのもいらない。ただ、ちゃんとした写真が欲しい」
「どうして急に……」
夫は少し笑う。
「急じゃない。前から少し思ってた。ただ、今日あの写真を見てはっきりした」
妻はゆっくり首を振る。
「でも……私、もう四十よ。結を生んでから体型も変わりましたし……」
夫の眉がわずかに寄る。
「だからなんだ」
「あなたはまだ三十四でしょう?釣り合いが……」
「お前は何を言ってる」
きっぱりと遮る。
「俺はお前がいいんだ。四十だろうが五十だろうが関係ない」
妻は苦く笑う。
「綺麗な花嫁さんを見たばかりでしょう?」
「見た」
即答。
「だがな、俺が見たいのは“あの女”じゃない。お前だ」
空気が一瞬、張り詰める。
「どうしてもダメか?」
その言葉は静かだが、真剣だった。
妻は視線を落とし、指を重ねる。
「……ドレスは、少し勇気がいるわ」
「なら?」
少しの沈黙。
「和装なら……白無垢なら、少し興味はある......かも」
夫の目が柔らぐ。
「白無垢か」
「ええ。落ち着いていますし……年齢的にも、まだ……許されるかと」
「許すも何もない」
夫はグラスを置く。
「場所は貸し切る」
妻が目を瞬く。
「貸し切る?」
「ああ。人目は一切いらない。神社でも庭園でも、好きな場所を選べ。全部俺が手配する」
「そんな、大げさな……」
「大げさでいい」
少し身を乗り出し、妻の顎に触れそうな距離で言う。
「俺の妻なんだ。中途半端なことはさせない」
妻の頬がわずかに赤くなる。
「あなた……」
「着付けも、撮影も、衣装も、全部最高のものを用意する」
「そこまでしなくても……」
「する」
きっぱり。
「お前が白無垢を着るなら、俺は紋付袴だな」
妻は思わず小さく笑う。
「あなた、似合いそう」
「似合うだろ」
自信に満ちた声。
佐川は遠くから静かにそのやり取りを見ている。整えられた黒のワンピース、きちんと結われた髪。表情は無だが、胸の奥がかすかに締めつけられる。
――白無垢。
奥様が、花嫁姿に。
夫は静かに続ける。
「写真は大きく引き伸ばす。リビングに飾る」
「えっ……」
「結にも見せたい。お前がどれだけ綺麗か」
妻は困ったように笑う。
「やめてください、結がからかうわ」
「それでもいい」
夫の声は優しい。
「俺は、お前の花嫁姿を見ていない。それがずっと引っかかってた」
妻の目が揺れる。
「……本当に、私でいいんですか?」
夫は即座に答える。
「お前以外いらない」
静かな夜景が、二人を包む。
妻はゆっくり息を吸う。
「……では、写真だけ。白無垢で」
夫の表情がわずかに緩む。
「決まりだな」
「あなたが全部手配するのでしょう?」
「ああ。お前は当日、俺の隣に立てばいい」
「命令口調ですね」
「当然だ」
小さく笑い合う。
結が遠くから声を上げる。
「ママー!パパー!なにしてるのー?」
夫は振り返り、微笑む。
「秘密だ」
妻は静かに夫を見る。
四十年生きてきた自分が、まだ誰かに花嫁として望まれている。
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
夜景の光の中、夫はそっと言った。
「楽しみにしてろ、お前」
妻は柔らかく微笑む。
「ええ、あなた」




