パパとおかいものデート
夕暮れ前のキッチン。
大理石のカウンターの上に食材が整然と並び、エプロン姿の妻と佐川が夕食の準備をしていた。
「……あら?」
ふと、妻が小さく首をかしげる。
「どうかなさいましたか、奥様」
「佐川、塩がないわ」
調味料棚をもう一度確認する佐川。
「……申し訳ございません。本日の昼で使い切ってしまったようです」
妻は困ったように笑う。
「今日は魚料理なのに、塩がないなんて致命的ね」
その時、リビングで新聞を読んでいた夫が顔を上げる。
「どうした」
「塩が切れているの。今から買ってくるわ」
そう言ってエプロンを外そうとした瞬間。
「待て」
低く、しかし柔らかな声。
「俺が行く」
妻が驚く。
「あなたが? もうすぐ夕食よ?」
「すぐそこだろう。散歩がてらちょうどいい」
その会話を聞いていた結が、ぱっと目を輝かせた。
「パパといくー!!」
「結もか?」
夫が少しだけ口元を緩める。
「うん! パパとおかいものデート!」
妻は微笑む。
「じゃあお願いしようかしら」
佐川は静かに一礼する。
「お気をつけて」
――――
車は使わず、父娘は手を繋いで歩く。
夕暮れの空は淡いオレンジ色に染まり、高層ビルの窓がきらりと光っている。
結はぴょんぴょんと弾むように歩く。
「ねぇパパ、おやつもかっていい?」
「塩を買いに来たんだぞ」
「ちょっとだけ!」
じっと見上げる大きな瞳。
夫は小さく息をつく。
「一つだけだ」
「やったー!」
その無邪気さに、夫の表情がわずかに緩む。
しばらく歩いたところで、結がふと真剣な顔になる。
「ねぇパパ」
「なんだ」
「パパとママって、どっちがさきにすきになったの?」
思わぬ質問に、夫は少しだけ目を細める。
「……パパだ」
「えっ?」
結が驚いた顔をする。
「パパが先にママを好きになった」
「ママは?」
「一度、振られた」
「えええっ!?」
結は立ち止まる。
「ママ、パパをふったの!?」
「そうだ」
夫は淡々と言うが、どこか懐かしさを含んだ声音。
「でもな、諦めなかった」
「どうして?」
「ママは特別だったからだ」
結はきらきらした目で父を見上げる。
「すごい……パパ、かっこいい」
夫は少しだけ視線を逸らす。
「大人にはいろいろある」
「でもいまはラブラブだよね?」
「……ああ」
短いが迷いのない返事。
結は嬉しそうに手をぎゅっと握る。
――――
スーパーに到着。
「まずは塩だ」
「はーい!」
棚の前で結が背伸びする。
「どれがいいの?」
「普通のものでいい」
買い物かごに塩を入れると、結の目はすでにお菓子コーナーへ。
「パパ、こっち!」
色とりどりの袋を前に、真剣な顔で悩む結。
「うーん……クッキーか、グミか……」
「一つだぞ」
「うーん……」
五分ほど悩み、ようやく決断。
「これ!」
小さなチョコレートを選ぶ。
「決まりか」
「うん!」
レジを済ませ、外に出る。
夜風が少し涼しい。
結は満足げに言う。
「おかいもの、たのしかったね」
「ああ」
「またいこうね」
「ママにも内緒でな」
「えへへ」
しばらく歩いた帰り道。
突然、結が立ち止まる。
「パパ」
「なんだ」
「パパだいすき」
何気ない、まっすぐな言葉。
夫は一瞬、言葉を失う。
それからゆっくりと、結の頭に手を置く。
「俺もだ」
「ほんと?」
「ああ。本当だ」
結は満面の笑みで、再び手を握る。
タワーマンションの灯りが見えてくる。
塩一袋の買い物は、思いがけず温かな時間になっていた。
夫はふと思う。
――守るべきものが、ここにある。
そして、もう一度だけ、結の小さな手を握り直した。




