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雨のち晴れ  作者: ありり
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結がいる食卓

——三年後。


夜景が広がるタワーマンションのダイニング。

大きな窓の向こうには、きらめく都会の灯り。


白いテーブルクロス。

キャンドルの柔らかな光。

丁寧に盛り付けられた料理。


そして——


「パパ!きょうね、えんそくでね!」


黒髪の女の子——ゆいが身を乗り出す。

三歳を少し過ぎたばかり。

あの小さな赤ん坊だった子は、今では元気いっぱいに話すようになっていた。


夫はナイフを持ったまま、すぐに視線を向ける。


夫「どうした?」


結「バスでね、いちばんうしろにすわったの!」


夫「ほう。勇敢だな」


結「ゆーかんってなに?」


妻がくすっと笑う。


妻「えらいってことよ」


結「えらいの?」


結は胸を張る。


妻「えらい!」


夫は真顔で頷く。


夫「間違いない」


そのやり取りを、少し離れた位置から佐川が穏やかに見守っていた。


白く整えられたエプロン。

淡いグレーのブラウス。

動きやすく上品なスカート。


姿勢は美しく、所作は静か。


彼女はサラダのボウルをそっとテーブルに置く。


佐川「結お嬢様、お野菜もお召し上がりくださいませ」


結「うーん……」


結が少し迷う顔をする。


夫が低く言う。


夫「食べる」


結「はーい……」


フォークで小さなトマトを刺す。


妻が微笑む。


妻「佐川、今日のドレッシング、少し甘め?」


佐川「はい。結お嬢様が召し上がりやすいように、蜂蜜を少量加えております」


妻「さすがね」


佐川「ありがとうございます」


結が一口食べて、目を丸くする。


結「あまい!」


夫「だろう」


夫がどこか誇らしげに言う。


結「さがわ、すごい!」


その言葉に、佐川は一瞬だけ目を細めた。


佐川「恐れ入ります」


妻が結の頭を撫でる。


妻「ちゃんとお礼を言いなさい」


結「ありがとう!」


小さな声が、まっすぐに響く。


佐川は深く一礼する。


佐川「こちらこそ、ありがとうございます」


三年前。

この子を初めて抱いたときの震えを、佐川は今も覚えている。


あのときより、ずっと自然に笑えるようになった。


夫がワイングラスを傾ける。


夫「最近、幼稚園ではどうだ?」


結は嬉しそうに話し始める。


結「おえかきでね、いちばんおおきいえをかいたの!」


夫「どんな絵だ?」


結「おうち!」


妻が目を細める。


妻「このお家?」


結「うん!パパとママと、わたしと……」


結は少し考える。


結「……さがわ!」


空気が一瞬、やわらかく止まる。


夫と妻が視線を交わす。


妻が穏やかに聞く。


妻「佐川も描いたの?」


結「うん!エプロンしてるの!」


夫が静かに言う。


夫「家族だと思っているのか」


結は無邪気に頷く。


結「だって、いつもいるもん」


佐川の胸が、静かに揺れる。


立場は変わらない。

借金もまだ残っている。


それでも——


佐川「結お嬢様の成長をお側で見守れること、光栄に存じます」


妻がそっと言う。


妻「佐川」


佐川「はい」


妻「あなたがいなければ、ここまで穏やかな時間は持てなかったわ」


夫も続ける。


夫「夜泣きの時期も、体調を崩した時も。よく支えてくれた」


佐川は視線を下げる。


佐川「務めを果たしただけでございます」


夫「違う」


夫の声は落ち着いているが、確かだ。


夫「務め以上だ」


結が急に立ち上がる。


結「だっこ!」


夫「おい、食事中だ」


結「だっこー!」


妻が笑う。


妻「あなた、お願い」


夫が苦笑しながら結を抱き上げる。


夫「まったく……」


結は父の首に腕を回し、嬉しそうに笑う。


その様子を見ながら、佐川はスープをよそう。


キャンドルの灯りが揺れる。

都会の夜景が広がる。


妻が静かに言う。


妻「三年って、早いわね」


夫「ああ」


妻「あなた、最初は抱くのも怖がっていたのに」


夫「今も怖い」


妻「え?」


夫「失うことが怖い」


妻はそっと夫の手に触れる。


妻「大丈夫よ」


結が元気に言う。


結「わたし、つよいもん!」


夫が笑う。


俺「そうか」


佐川が静かに口を開く。


佐川「結お嬢様は、心もお強くなりました」


結「ほんと?」


佐川「はい。優しくて、まっすぐでいらっしゃいます」


結は照れくさそうに笑う。


結「さがわも、やさしいよ」


その一言に、佐川の目がわずかに潤む。


けれど涙は見せない。


佐川「恐れ入ります」


妻がワインを一口飲み、ゆっくりと言う。


妻「この家は、ずいぶん変わったわね」


夫が頷く。


夫「ああ。賑やかになった」


結が元気に叫ぶ。


結「もっとにぎやかにする!」


夫「それはやめろ」


笑いが広がる。


その中心で、佐川は静かに給仕を続ける。


皿を下げ、料理を運び、

温度を確かめ、

グラスを整える。


穏やかで、

整った時間。


三年前、胸に抱いた決意は変わらない。


私は仕える。

この家に。

この未来に。


そして今——


それは、義務だけではなく、

静かな誇りになっていた。

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