三月、家族になる日
三月のやわらかな陽射しが、タワーマンションのエントランスに差し込んでいた。
自動ドアが静かに開く。
高級車から降りた夫は、慎重にベビーシートを抱え、もう片方の手で妻の腰を支えている。
夫「足元、大丈夫か?」
妻「大丈夫よ。……そんなに心配しなくても」
そう言いながらも、妻は夫の腕にしっかりと寄り添っていた。腕の中には、小さな小さな命。
赤ん坊はすやすやと眠っている。
夫は受付で退院手続きを済ませ、何度も書類を確認し、医師や看護師へ深く頭を下げた。その顔は普段の冷静さとは違い、どこか緊張と誇らしさが混じっている。
エレベーターが最上階へと上がる。
静かな振動の中で、妻が小さく笑った。
妻「あなた、さっきから娘の顔ばかり見てるわよ」
夫「……見てしまうんだ。信じられない」
妻「何が?」
夫「俺たちの子だということが」
妻は少し照れたように視線を落とす。
妻「女の子ね」
夫「ああ。俺はもう、完全に負けた」
妻「誰に?」
夫「この小さな存在に」
妻はくすっと笑う。
妻「溺愛するって言ってたの、本当になりそうね」
夫「もうなっている」
エレベーターの扉が開いた。
玄関前で、ひとりのメイドが静かに頭を下げていた。
「おかえりなさいませ」
佐川だった。
かつての、あのみすぼらしい茶色のカーディガンはない。
淡いクリーム色のブラウス。
膝丈の上品なネイビーのスカート。
清潔感のある白いエプロン。
髪もきちんとまとめられ、姿勢も整っている。
妻は一瞬、佐川を見てから、穏やかに言った。
妻「ただいま」
その声には、以前のような冷たい棘はない。
佐川は視線を上げ、赤ん坊を見る。
佐川「……おめでとうございます」
ほんの少しだけ、声が震えていた。
夫が静かに言う。
夫「ありがとう。今日から、この子がこの家の一員だ」
佐川は深く頭を下げる。
佐川「誠心誠意、お世話をさせていただきます」
妻はゆっくりと近づき、赤ん坊をそっと見せた。
妻「ほら。あなたが毎日磨いてくれていた床の上を、いつかこの子が歩くのよ」
佐川の目がわずかに潤む。
佐川「……はい」
夫が妻の肩を抱く。
夫「無理はするな。今日は何もせず休め」
妻「そうもいかないわ。家に帰ってきたんだもの」
夫「今日は、母親になった日だ。休む資格がある」
妻は少し考え、微笑む。
妻「じゃあ、少しだけ甘える」
夫「いくらでも」
赤ん坊が小さく声を上げる。
妻「あ……起きた」
夫が慌てる。
夫「泣くか? どうすればいい?」
妻がくすっと笑う。
妻「あなた、落ち着いて。抱っこしてみる?」
夫「俺が?」
妻「父親でしょう?」
夫は恐る恐るベビーシートから娘を抱き上げる。
小さな体。
小さな指。
温もり。
夫「……軽い」
妻「でも重いわよ。責任が」
妻の言葉に、夫は真剣な目になる。
夫「ああ。何があっても守る」
佐川が一歩下がり、静かに言った。
佐川「ベビーベッドはすでに寝室にご用意しております。加湿器も適温に設定済みです」
夫が視線を向ける。
夫「完璧だな」
佐川「ありがとうございます」
妻が佐川を見る。
妻「あなた、変わったわね」
佐川は少しだけ驚いた顔をする。
佐川「……そうでしょうか」
妻「身なりも、所作も」
佐川「この家に仕える以上、相応しくありたいと存じます」
夫が静かに言う。
夫「この子の前では、誰も卑屈でいる必要はない」
佐川は目を伏せる。
佐川「はい」
妻が赤ん坊の頬に触れる。
妻「この子が大きくなる頃、この家はどうなっているかしら」
夫が即答する。
夫「もっと賑やかだ」
妻「どういう意味?」
夫「お前がもう一人欲しいと言うかもしれない」
妻「まだ今日なのに?」
夫「未来の話だ」
妻は小さく笑う。
妻「まずはこの子よ」
赤ん坊が夫の指をぎゅっと握る。
夫は息を呑む。
夫「……握った」
妻「当然です」
俺「離れないな」
妻「一生、離れないかもよ?」
夫は真顔で言う。
夫「それでもいい」
妻は優しく夫を見る。
妻「あなた、本当に娘に弱いですね」
夫「妻にも弱い」
妻「知ってます」
玄関の空気が、やわらかくなる。
佐川がそっと言う。
佐川「温かいミルクをご用意いたしましょうか」
妻がうなずく。
妻「お願い」
夫が妻を支えながら室内へ入る。
大理石の床に、春の光が広がる。
その中心に、小さな命。
夫がぽつりと言う。
「おかえり」
妻が答える。
「ただいま」
そして赤ん坊に。
妻「ここが、あなたのお家よ」
静かで、温かく、新しい季節の始まりだった。




