二月の静かな贈り物
二月の冷たい朝。
タワーマンションの高層階は、冬の光をやわらかく受け止めていた。
佐川はいつものように六時半に仕事を始める。
以前のように五時ではない。焦る必要も、怯える必要もない。
掃除機を静かに滑らせながら、ふと窓の外を見る。
「……四十三、か」
小さく呟く。
誕生日を祝われる立場ではないと、ずっと思っていた。
あの日から、本当に待遇は変わった。
メイド部屋の清掃を命じられたときは、正直、罰かと思った。
「不要な掃除用具は処分しなさい。
あなたの部屋なのだから、あなたが整えなさい」
淡々とした命令だった。
だがその結果、狭く古びた部屋は、清潔で整った空間へと変わった。
古い埃の匂いは消え、白いカーテンが陽を通す。
食事も、同じものが用意される。
テーブルは別だが、内容は同じ。
勤務時間も六時半から。
そして休憩時間も与えられた。
――私は、ただの使用人ではあるけれど。
雑巾を絞りながら、佐川は思う。
「……必要とされている」
それだけで、十分だった。
***
その日もいつも通り、廊下の拭き掃除を終えようとしたときだった。
足音が止まる。
振り向くと、黒のワンピース姿の妻が立っていた。
お腹は大きく、出産が近いことが一目でわかる。
妻「……佐川」
佐川「はい、奥様」
妻「それが終わったら、リビングへ来なさい」
佐川「……承知いたしました」
声はいつも通り、感情の波を見せない。
佐川は一礼し、残りを丁寧に仕上げた。
胸の奥が、わずかに騒ぐ。
――何か、失敗をしただろうか。
***
リビングに入ると、暖かな光が差していた。
妻はソファに腰掛けている。
テーブルの上には、大きな包み。
佐川「参りました」
妻「そこに立ちなさい」
佐川は背筋を伸ばす。
妻は包みを手に取り、差し出した。
妻「受け取りなさい」
佐川「……?」
両手で受け取る。
思ったより軽い。
妻「開けて」
静かな命令。
包みをほどくと、中から現れたのは――
淡いグレーの、新品のカーディガン。
上質な生地。柔らかい手触り。
佐川の喉が、かすかに震える。
佐川「……奥様、これは……」
妻「あなたの私服よ」
淡々と。
妻「冬物が古びていたでしょう」
佐川に「……」
言葉が出ない。
そのとき、妻がもう一つ、小さな箱を差し出す。
妻「これも」
箱を開けると、ネックレス。
見覚えのあるそれを、佐川は一瞬で理解する。
元夫からのプレゼント。
妻は視線を逸らしたまま言った。
妻「返すわ」
それ以上の説明はない。
価値はほとんどない品。
だが、佐川にとっては――思い出だった。
指先が震える。
佐川「……よろしいのですか」
妻「私にとってはいらないの。いらないものを持っていても仕方ないでしょう」
あくまで淡々と。
沈黙が落ちる。
窓の外では、二月の空が澄んでいる。
妻はふと佐川を見上げた。
妻「佐川」
佐川「はい」
一瞬だけ、ほんの一瞬だけ。
その目が柔らいだように見えた。
妻「お誕生日、おめでとう」
空気が止まる。
佐川の呼吸が浅くなる。
佐川「……っ」
胸の奥に、熱いものが込み上げる。
だが、佐川は深く頭を下げた。
佐川「……ありがとうございます、奥様」
声は震えないように努めた。
妻は少しだけ眉を動かす。
妻「大袈裟な反応は不要よ。
ただの区切りです」
佐川「……はい」
妻「出産が近いわ。今後、あなたに頼ることは増える」
佐川「はい」
妻「体調管理を怠らないこと。あなたが倒れては困る」
佐川は顔を上げる。
佐川「……私を、必要とされているのですか」
思わず零れた本音。
妻は静かに答える。
妻「当然でしょう」
即答だった。
妻「あなたはこの家の使用人よ」
それは立場の確認。
だが同時に。
妻「代わりはいない」
短く、しかし確かに言った。
佐川の視界が滲む。
佐川「……承知いたしました」
妻「泣くほどのことではないわ」
佐川「失礼いたしました」
妻「それと」
妻は立ち上がろうとする。
佐川がすぐに支える。
妻「ありがとう、佐川」
支えられながら、妻は小さく言った。
その言葉は、以前のような命令ではない。
佐川はゆっくりと答える。
佐川「こちらこそ……お仕えできること、光栄です」
大きなお腹を抱えた妻と、四十三歳の元富豪の奥様。
主と使用人。
だがその間に流れる空気は、もう冷たくはなかった。
二月の光が、静かに二人を包んでいた。




