溶けた氷の心③ 〜佐川の胸の内〜
白いエプロンが、まだ少しだけ硬い。
指先で布をつまむたびに、佐川は思う。
——これは、施しではない。選択の証だ。
二億円。
その数字は、もう何年も胸に刺さったまま抜けない棘だった。
元夫の裏切り。保証人の署名。逃げられなかった現実。
「減らさない。」
旦那様の声は冷静で、容赦がなかった。
だが同時に「利息は無し」とも言った。
それは罰なのか、救済なのか。
(逃げることもできた)
外に出て、別の仕事を探すこともできると言われた。
自由。
だが、二億円を背負ったままの自由。
(私は……自由が欲しいのではない)
佐川は気づいていた。
ここで働き始めた頃は、ただの罰だと思っていた。
みすぼらしいカーディガンを着て、叱責され、床を磨き続ける日々。
それでも、どこかで思っていた。
——この家は、崩れない。
理不尽な日もあった。
ただ今日、奥様が言った言葉が胸に残っている。
「寄り添いたいと思っている。」
あの人は、自分の元夫を許さないと言った。
それは当然だ。
自分のせいで、この家にまで迷惑が及んだのだから。
それでも——
“寄り添う”と言ってくれた。
(私は、罰だけを受けているわけではない)
二十年。
長い。
自分は今四十ニ歳。完済する頃には六十を超える。
それでも。
この家でなら、二十年は“地獄”ではない。
奥様のお腹の中の子。
あの小さな命が生まれたら、夜も眠れない日々が始まるだろう。
世話が増える。責任も増える。
(それでも、私は……)
自分が失った家庭。
自分が守れなかった未来。
その代わりではない。
だが、あの子の成長を支えられるなら。
「ここでお仕えしたいです。」
あの瞬間、涙は止まらなかった。
情けなくて、悔しくて、でもどこか安堵していた。
(選ばされたのではない。自分で選んだ)
それが、何よりも大きい。
新品の制服は、借金の鎖ではない。
再出発の鎧だ。
奥様の赤いワンピース越しに見えた大きなお腹。
旦那様の静かな支え。
あの光景を見て、思った。
(この家は、守る価値がある)
元夫への怒りも、後悔も、消えない。
だがそれに縛られて泣き続ける人生は、もう終わらせたい。
二十年。
長いようで、きっとあっという間だ。
その間に、自分は何者になれるだろうか。
借金を背負った女ではなく。
みすぼらしい過去の象徴でもなく。
「この家を支えたメイド」
そう胸を張れる日が来るなら。
——私は、耐えられる。
涙を拭いながら、佐川は静かに決意する。
今度こそ、逃げない。
この白いエプロンに、恥じない生き方をする。




