溶けた氷の心②
柔らかな灯りが、重厚なリビングを包んでいた。
きれいな白いエプロン。
張りのある黒のワンピース。
背筋を伸ばして立つ佐川は、半年前までの色褪せた茶色のカーディガン姿とは別人のようだった。
ソファには、深紅のワンピースを纏った妻。
その丸く大きなお腹を、夫が静かに支えている。
テーブルの上には温かな紅茶と焼き菓子。
夫が先に口を開いた。
夫「佐川。」
低く、感情を削ぎ落とした声。
夫「お前の借金、二億円。元金は減らさない。」
佐川の指先がわずかに震える。
夫「ただし、利息は取らない。」
沈黙。
夫「月々の返済額を決めろ。払える額を提示しろ。それを継続できるなら——」
彼は一度、紅茶を口に含み、視線だけを向けた。
夫「うちを辞めて別の仕事を探しても構わない。」
静まり返る部屋。
佐川の喉がひくりと動く。
夫は続けた。
夫「もし、ここでメイドを続けるなら。給与は引き上げる。二十年弱で完済できる水準までな。」
夫「判断はお前次第だ。」
冷たいほど合理的な宣告。
妻がゆっくりと口を開く。
妻「うちで働くなら、待遇は改善するわ。」
穏やかな声音だが、芯は固い。
妻「制服は今のようにきちんと支給する。食事も簡素なものではなく栄養を考える。勤務時間も無理はさせない。」
佐川の目に涙が滲む。
妻は自分の腹部にそっと手を置く。
妻「ただし——」
静かな視線が佐川を射抜く。
妻「この子が生まれたら、世話が加わる。夜間対応も必要になることがある。」
妻「それは覚悟して。」
佐川は深く頭を下げた。
佐川「……はい。」
妻は一瞬だけ視線を落とす。
妻「あなたの元夫のことは、許せないわ。」
空気がわずかに張り詰める。
妻「あなたに対しても憎悪がないわけではない」
夫は無言のまま、妻の言葉を肯定するように頷く。
妻「でも——」
妻の声がほんのわずかに柔らぐ。
妻「その反面、寄り添いたいと思っている。」
佐川の肩が震えた。
佐川「奥様……」
夫が静かに締める。
夫「情に流されるな。これは契約だ。」
夫「辞めるなら今だ。ここにいれば二十年は縛られる。」
夫「外に出れば自由だが、二億は背負ったままだ。」
長い沈黙。
エプロンに、ぽたりと涙が落ちる。
佐川は膝をつき、深く頭を下げた。
佐川「……私は、ここでお仕えしたいです。」
声は震えているが、はっきりしていた。
佐川「奥様と旦那様に。これから生まれるお子様にも。」
佐川「二十年でも三十年でも……必ずお返しします。」
夫はしばらく佐川を見下ろし、淡々と言った。
夫「分かった。」
夫「明日、契約書を用意させる。」
妻は静かに立ち上がり、佐川の前に歩み寄る。
妻「泣くのは今日までよ。」
優しくも厳しい声音。
妻「これからは、うちのメイドとして胸を張りなさい。」
佐川は嗚咽を堪えながら、何度も頷いた。
夫が妻の肩を抱く。
夫「体を冷やすな。もう休め。」
妻は頷き、佐川に最後に言う。
妻「あなたの人生を、ここで立て直しなさい。」
その言葉は命令であり、救いでもあった。
静かな夜。
出産を控えた屋敷で、ひとつの契約が結ばれた。
それは支配でもあり、再出発でもあった。




