溶けた氷の心①
高層階の寝室。
窓の向こうには、宝石のように瞬く夜景が広がっている。
静かな間接照明の中、夫はベッドにもたれ、妻を腕の中に包んでいた。
妻は黒のナイトドレス姿で、ゆっくりと彼の胸に頬を寄せている。
妻「……もうすぐね。」
妻が小さく言う。
夫は彼女の肩を引き寄せ、低く答える。
夫「ああ。」
大きくなったお腹に、そっと手を添える。
夫「楽しみか。」
妻「はい。」
妻は微笑むが、その瞳にはわずかな迷いがある。
妻「でもね……少し怖い。」
夫「何がだ。」
妻「ちゃんと、穏やかな母でいられるかどうか。」
夫は黙って彼女の髪を撫でる。
妻「私は、感情が強いでしょう?」
夫「ふっ」
妻「冷たいって言われることもあるし……」
夫は再びふっと小さく笑う。
夫「俺は嫌いじゃない。」
妻「あなたはね。」
妻は小さく肩をすくめる。
妻「でも、この子の前では……穏やかでいたいの。」
窓の外の光が、彼女の横顔を淡く照らす。
妻「怒りや憎しみを、なるべく見せたくない。」
夫はその言葉の意味を理解している。
夫「佐川の元夫のことか。」
妻の表情が少しだけ硬くなる。
妻「……消えないわ。」
夫「当然だ。」
妻「二億もの借金、私への屈辱、忘れない」
静かな怒りが滲む。
夫は否定しない。
妻「佐川......彼女に対しては……少し、優しくしてもいいのかもしれないと思ってる。」
夫は視線を落とす。
夫「そうか」
妻「母になるからかしら。」
妻は自分のお腹を撫でる。
妻「この子が生まれるなら、家の空気も変えたい。」
妻「怒りよりも、安定を。」
少しの沈黙。
妻「あなたにお願いがあるの。」
夫の腕が、わずかに力を強める。
夫「言え。」
妻「佐川の借金の扱い。」
妻「利息をなくすだけでなく……返済の計画を現実的にしてあげてほしい。」
妻「待遇も、きちんと整えてあげて。」
夫はすぐには答えない。
夜景を見つめ、思考を巡らせる。
夫「甘やかすつもりはない。」
妻「分かっています。」
夫「だが、お前が望むなら。」
妻は顔を上げる。
妻「本当に?」
夫「お前が穏やかでいられる環境を作るのも、俺の役目だ。」
低く、真っ直ぐな声。
夫「借金は減らさない。だが利息は取らない。」
夫「給与も引き上げる。二十年弱で返せる水準にする。」
妻の瞳が柔らぐ。
妻「ありがとう。」
夫「ただし。」
夫は淡々と続ける。
夫「情ではなく、契約だ。彼女にも覚悟を持たせる。」
妻「ええ、それでいいです。」
妻は安心したように目を閉じる。
妻「この子が生まれたら、きっと毎日が慌ただしくなりますね、きっと」
妻「眠れない夜も増える。」
夫「俺がいる。」
即答だった。
妻はくすっと笑う。
妻「過保護。」
夫「当然だ。」
彼は妻のお腹に軽くキスを落とす。
夫「お前も、この子も、守る。」
妻は彼の胸に顔を埋める。
妻「明るい未来にしたいわ。」
妻「怒りに縛られる家じゃなくて。」
妻「笑い声のある家。」
夫は静かに頷く。
夫「築けばいい。」
夫「俺たちでな。」
夜景が静かに瞬く。
これまで多くを乗り越えてきた二人。
支配や合理の裏にあるのは、揺るがぬ結束。
妻が小さく呟く。
妻「きっと大丈夫よね。」
夫「ああ。」
夫は迷わない。
夫「俺たちは、負けない。」
彼の腕の中で、妻は穏やかな表情になる。
新しい命が生まれる前夜。
二人は未来を選び直していた。
怒りを抱えながらも、
それに支配されない未来を。




