静謐なる新年
新しい年の朝は、静かだった。
まだ夜の名残が残る午前五時。
タワーマンションの高層階から見える街は、青白い冬の光に包まれている。
佐川はすでに起きていた。
きれいなカーディガンの袖をきちんと折り、髪をまとめ、無駄のない動きでリビングへ向かう。
掃除機の音は最小限に。
窓を拭く布は二枚使い。
床は光が差し込む角度を計算して磨く。
夫の革靴は玄関に並べられ、丁寧にクリームを塗り、布で磨き上げる。黒の革が鏡のように光る。
キッチンでは湯気が立ちのぼる。
出汁の香り、焼き魚の匂い、温かい味噌汁。
すべてが整った頃、時計は六時半を指していた。
寝室の扉が静かに開く。
ゆっくりとした足取りで、妻が姿を現した。
妊娠後期。
腹部は大きく、歩幅は自然と狭くなる。
背筋は伸びているが、どこか慎重だ。
佐川はすぐに歩み寄る。
佐川「おはようございます、奥様。」
妻「……おはよう、佐川。」
妻は軽く息を吐く。
妻「今朝は、少し腰が重いわ。」
佐川「椅子をお引きいたします。」
佐川はすぐにダイニングチェアを引き、座面にクッションを重ねる。
妻「ありがとう。」
佐川「いえ。」
夫もやがて現れる。
スーツ姿、整った髪、いつも通りの落ち着いた表情。
夫「体調は?」
妻は小さく笑う。
妻「重たいだけよ。元気です。」
夫は妻の腹部に一瞬視線を落とし、静かに頷く。
夫「無理はするな。」
妻「はい。」
そのやり取りを、佐川は少し距離を置いて見ている。
朝食が始まる。
妻「佐川、この味噌汁、少し薄いかしら?」
妻の声は穏やかだ。
佐川「申し訳ございません。お出汁を足します。」
妻「いいえ、このままでいいわ。身体には優しい味。」
佐川は一瞬だけ目を伏せる。
佐川「……ありがとうございます。」
夫が席を立つ。
夫「行ってくる。」
妻「いってらっしゃい。」
妻は立ち上がろうとするが、動きが鈍い。
佐川がすぐ横に立つ。
佐川「お手を。」
妻は自然に佐川の腕を取る。
妻「悪いわね。」
佐川「当然の務めでございます。」
玄関。
磨き上げた靴を履く夫。
夫「磨いてあるな」
佐川「はい。ありがとうございます。」
夫が出ていき、静けさが戻る。
片付けが終わる頃には、朝の光が部屋を満たしている。
佐川はリビングのソファ横に控える。
妻はゆっくりと腰を下ろす。
妻「今日は、ベビー服の整理をしたいの。」
佐川「承知いたしました。どの箱を?」
妻「寝室のクローゼットの上段。」
佐川は迷いなく動く。
高い位置の箱を軽々と降ろし、丁寧に開ける。
小さな肌着。
柔らかな布。
妻の指がそれに触れる。
妻「……不思議ね。」
佐川「はい?」
妻「まだ会ってもいないのに、こんなに存在感があるなんて。」
佐川は少しだけ間を置く。
佐川「奥様のお腹に宿っているからでございます。」
妻はしばらく布を撫でる。
妻「佐川、これを水通ししておいて。」
佐川「かしこまりました。」
指示を受ける。
それだけなのに、佐川の胸の奥が温かくなる。
必要とされている。
それは、かつて自分が“奥様”だった頃とは違う感覚だった。
命令する側ではなく、
支える側。
午後。
妻が立ち上がろうとして、わずかによろめく。
妻「……あ。」
すぐに佐川が支える。
佐川「大丈夫でございますか?」
妻「平気よ。ちょっと足が浮腫んでるだけ。」
佐川「マッサージの準備をいたします。」
妻「お願い。」
ソファに横になる妻。
佐川は膝をつき、静かに足に触れる。
圧は正確で、無駄がない。
妻「……上手ね。」
佐川「以前、覚えました。」
妻「できることが増えたわね。」
佐川「いえ。まだ足りぬことばかりでございます。」
妻は天井を見つめながら言う。
妻「佐川。」
佐川「はい。」
妻「あなたがいると、助かるわ。」
一瞬、時間が止まる。
佐川「……光栄でございます。」
それだけしか言わない。
言えない。
外では新しい年の風が吹いている。
静かな午後。
大きな窓の向こうに広がる空は澄み切っている。
妻は穏やかな表情で腹部を撫でる。
佐川はその少し後ろに立ち、静かに見守る。
かつての大富豪の元奥様。
何もかもを失い、ここにいる。
けれど今は。
この家で、
この命の誕生を支えることができる。
それだけで、十分だった。
妻「佐川。」
佐川「はい、奥様。」
妻「明日は、お粥にしてちょうだい。少し軽いものがいいわ。」
佐川「承知いたしました。五時に仕込みます。」
妻は小さく微笑む。
妻「頼りにしているわ。」
佐川は深く一礼する。
佐川「お任せください。」
新しい年。
主と仕える者。
静かで、正常で、穏やかな関係。
その空気の中で、
佐川は初めて、自分の居場所を感じていた。




