夫の誕生日
――11月。
夜風が冷たくなりはじめた頃。
妻のお腹は、もう隠せないほどに丸みを帯びていた。妊娠六ヶ月。安定期に入り、胎動もはっきり感じる。
夫の誕生日が近づいていた。
キッチンのカウンターに手をつきながら、妻はゆっくりと息を吐く。
妻「頑張ってあの人のために作りたい……」
無理はできない。長時間立つのもつらい日がある。
けれど、それでも――今年は特別だった。
性別がわかったのだ。
医師から告げられたあの瞬間。
エコーの画面を見ながら、静かに涙が滲んだ。
(このことを……あの人の誕生日に伝えたい)
それが、妻の小さな計画だった。
⸻
数日前の夜。
夫は書斎で仕事をしている。
妻は扉をノックし、静かに入る。
妻「……今よろしいですか?」
夫「ああ。どうした」
クールな声。だが視線はすぐに妻のお腹へと落ちる。
妻「誕生日……今年は、外には出られないけれど」
夫「気にするな」
妻「でも、夕飯だけでも一緒に過ごせないかしら。あなたの誕生日、私は一緒にいたいの」
少しだけ、素直な声音。
夫は一瞬、目を細める。
夫「……調整する。必ず帰る」
短い言葉だが、確かな約束。
妻「ありがとう」
妻は小さく微笑んだ。
⸻
そして誕生日当日。
リビングにはキャンドルの柔らかな灯り。
テーブルには、手の込んだものではないが、丁寧に作られた料理。
ハンバーグ。
マッシュポテト。
温野菜のサラダ。
夫のための赤ワイン、自分のための水
佐川には昼のうちに現金を渡し、こう命じていた。
妻「夕飯は外で食事をしていらっしゃい」
佐川「……承知いたしました」
家は、完全に二人きり。
夕方。
玄関の電子音が鳴る。
ドアが開いた瞬間、妻はゆっくりと歩み寄り――
ぎゅっと、抱きしめた。
妻「……おかえりなさい」
夫がわずかに息を止める。
夫「……どうした」
妻「誕生日、おめでとう」
顔を胸元に押し当てたまま、言う。
大胆な行動に、夫は一瞬だけ驚いた顔をする。だがすぐに、強く抱き返した。
夫「……ありがとう」
低い声が、少しだけ柔らかい。
夫「重くないか」
妻「全然」
むしろ愛おしそうに、お腹ごと抱きしめる。
妻「今日は二人だけよ」
夫「……そうか」
その声には、わずかな満足が滲む。
⸻
テーブルにつく。
夫「無理はしてないか」
妻「していないわ。簡単なものだけ」
夫「……十分だ」
ハンバーグを一口食べ、夫はわずかに目を細める。
夫「美味い」
妻「本当?」
夫「ああ」
その一言で、妻の表情がほどける。
妻「よかったです」
穏やかな空気。
グラスが触れ合う。
妻「改めて、おめでとう」
夫「ありがとう。……嬉しい」
妻はくすりと笑う。
妻「今年はね……大きなプレゼントがあるの」
夫の視線が上がる。
夫「……何だ」
少し沈黙を置いて、妻はフォークを置く。
妻「ちょっと前に、検診だったの」
夫「……問題はないな?」
一瞬で緊張する夫。
妻「ええ、順調」
ほっとした表情。
妻「それでね……性別がわかったの」
空気が止まる。
夫「……そうか」
夫は淡々と頷く。
夫「どちらでもいい」
妻「本当に?」
夫「ああ。無事なら、それでいい」
妻は、意地悪そうに微笑む。
妻「じゃあ、教えない」
夫「……は?」
珍しく間の抜けた声。
妻「どちらでもいいのでしょう?」
夫「……それとこれとは別だ」
わずかに眉を寄せる。
夫「知りたいから教えろ」
妻「そんなに?」
夫「当然だ」
妻はゆっくりと水を飲み、焦らす。
夫「焦らさないでくれ」
妻「ふふ」
夫「頼む」
少しだけ照れた声音。
その姿が愛おしくて、妻はようやく口を開く。
妻「……女の子です」
一拍。
夫の目が、わずかに見開かれる。
夫「……娘か」
その言葉は、静かだが確実に嬉しさを含んでいる。
妻「嬉しい?」
夫「……ああ」
短いが、深い声。
妻は笑う。
妻「きっと溺愛するわね」
夫「しない」
即答。
妻「します」
夫「……しない」
妻「今からそんな顔しているのに?」
夫は言葉に詰まる。
夫「……」
妻は優しくお腹を撫でる。
妻「あなたは、いい父親になります」
夫は黙って、そっと妻のお腹に手を当てる。
夫「……待っている」
小さく、確かに言う。
その手の温もり。
穏やかな灯り。
二人だけの静かな空間。
夫「最高の誕生日になった」
夫がぽつりと呟く。
妻「本当に?」
夫「ああ。これ以上はない」
妻は微笑みながら、夫の手を重ねる。
妻「来年は三人ね」
夫「……そうだな」
未来を思い描くように、静かに目を細める夫。
外は冷たい夜風。
けれど部屋の中は、あたたかい。
その年の誕生日は、
静かで、優しくて、
新しい命の気配に満ちた夜となった。




