選ばれた男の静かな嫉妬⑤ 〜夫の胸の内〜
車を降り、エントランスへ向かう足取りはいつもと同じはずなのに、胸の奥だけが妙に騒がしかった。
——薄々、気付いていた。
相馬の視線。
一歩引いた距離。
決して越えない線。
部下として完璧だった。
だからこそ、余計に分かった。
あれは忠誠だけではないと。
だが、あえて触れなかった。
触れる必要がなかったからだ。
選ばれたのは自分だと、最初から分かっていた。
それでも今日、はっきりと言葉にされると、胸の奥に奇妙な感情が広がる。
優越。
安堵。
そして、ほんのわずかな苛立ち。
——昨日、幸せそうだった。
その言葉が何度も反芻される。
どんな顔をしていた。
どんな目で、相馬を見た。
自分の知らない一瞬が存在したことが、気に入らない。
たとえそれが、ほんの数分でも。
エレベーターに乗り込む。
鏡に映る自分の顔は、いつも通り冷静だ。
だが内側では、静かな独占欲が渦巻いている。
相馬は四十二。
自分より一回り以上年上。
経験も、落ち着きもある男だ。
もし自分がいなかったら。
そんな仮定が一瞬よぎる。
すぐに打ち消す。
——あり得ない。
彼女は自分を選んだ。
迷いなく。
それは今も変わらない。
それでも。
妻が穏やかに笑う姿を、他の男が見たという事実が、胸の奥に小さな棘のように刺さる。
自分だけが知っていればいい。
自分だけに向けられていればいい。
そう思ってしまう。
それが未熟だと分かっている。
だが消えない。
部屋の前で立ち止まる。
ドアの向こうには、妻がいる。
もうすぐ六ヶ月の身体で、きっと静かに待っている。
自分の子を宿しながら。
相馬は未練はないと言った。
あの目は嘘ではなかった。
だからこそ、余計に腹が立つ。
潔さは、脅威ではない。
だが、過去に想われていた事実は消えない。
夫はゆっくりと息を吐く。
——守る。
妻も、子も。
そして、自分の立場も。
選ばれた男として、揺らがないこと。
それが自分の役目だ。
インターホンを押す。
扉が開く。
そこに立つ妻の顔を見た瞬間、胸のざわめきは少しだけ静まる。
穏やかで、柔らかい。
自分の妻だ。
それでも心の奥で、小さく思う。
——誰にも渡さない。
たとえ過去であっても。




