選ばれた男の静かな嫉妬④
夜の帰路。
黒塗りの高級車が静かに走る。
街の灯りが窓に流れ、車内は落ち着いた薄明かりに包まれていた。
会議の資料はすでに閉じられている。
仕事の話は終わっていた。
しばらくの沈黙のあと、夫が口を開く。
夫「……相馬。」
相馬「はい。」
夫「お前は結婚しないのか。」
唐突だが、朝とは違う声色だった。
相馬はわずかに視線を上げる。
相馬「ご心配いただく年齢ではございますね。四十二ですので。」
夫「年齢の問題ではない。」
夫は窓の外を見たまま言う。
夫「望めばできるだろう。」
相馬は小さく笑う。
相馬「以前、好きな方はおりました。」
車内の空気がわずかに変わる。
夫「ほう。」
相馬「ですが、強力なライバルがいまして。」
夫「強力?」
相馬「ええ。」
相馬の声は静かだ。
相馬「能力も、覚悟も、決断力も。私では敵わないと判断いたしました。」
夫の指先が、膝の上でわずかに動く。
夫「だから身を引いた、と。」
相馬「はい。」
短い沈黙。
夫の声が低くなる。
夫「未練はないのか。」
相馬は迷わない。
相馬「ございません。」
きっぱりと。
夫「本当にか。」
相馬「はい。」
相馬は続ける。
相馬「昨日、少しお話しする機会がございましたが——」
夫の視線がゆっくり向く。
夫「……そうか。」
相馬「とても幸せそうでいらっしゃいました。」
その一言で、夫は理解する。
胸の奥で、何かが確信に変わる。
夫「……俺の妻か。」
静かな断定。
相馬は一瞬だけ目を伏せ、それから真っ直ぐに見返す。
相馬「はい。」
嘘も、取り繕いもない。
車内は静まり返る。
だが緊張はない。
夫は小さく息を吐く。
夫「薄々気付いていた。」
相馬はわずかに眉を上げる。
相馬「そうでございましたか。」
夫「視線で分かる。」
夫は淡々と続ける。
夫「お前は常に一歩引いていたが、完全には消せていなかった。」
相馬は苦笑する。
相馬「未熟でございました。」
夫「いや。」
夫は首を振る。
相馬「理性的だった。」
沈黙。
車は信号で止まる。
赤い光が車内を一瞬照らす。
夫が問う。
夫「それでも未練はないのか。」
相馬は即答する。
相馬「ございません。」
その声は揺らがない。
相馬「私は選ばれなかった。それが全てです。」
静かな覚悟。
相馬「社長は、あの方を迷いなく選ばれた。」
夫は目を細める。
夫「当然だ。」
相馬「そして昨日——」
相馬は続ける。
相馬「守られている方の顔をしておられました。」
夫の胸に、わずかな優越と安堵が広がる。
夫「……幸せそうだったか。」
相馬「はい。」
迷いなく。
相馬「とても。」
車が再び動き出す。
夫は窓の外を見ながら言う。
夫「お前が敵わないと思った理由は何だ。」
相馬は少し考え、答える。
相馬「覚悟です。」
夫「覚悟?」
相馬「すべてを背負う覚悟。」
夫は小さく笑う。
夫「大袈裟だな。」
相馬「事実でございます。」
相馬は静かに続ける。
相馬「私は支える立場。社長は、選び、守る立場。」
その違いは決定的だった。
エントランスが見えてくる。
車がゆっくりと減速する。
夫は最後に言う。
夫「相馬。」
相馬「はい。」
夫「余計な感情は持つな。」
相馬「当然でございます。」
少しの間。
夫は低く続ける。
夫「だが——」
相馬が目を上げる。
夫「俺の選択が正しかったと証明するためにも、仕事で裏切るな。」
相馬は深く一礼する。
相馬「生涯。」
短く、力強い言葉。
車が停まる。
ドアが開く。
夫は夜の空気の中へ降り立つ。
胸の奥には、奇妙な静けさがあった。
——薄々気付いていた。
——だが選ばれたのは自分だ。
その事実が、揺るがない。
一方、車内に残った相馬は、目を閉じる。
未練はない。
本当にない。
ただ——
あの穏やかな笑顔を、守るのは自分ではなかった。
それだけだ。
「お幸せに。」
誰にも聞こえない声が、静かな車内に溶けた。




