選ばれた男の静かな嫉妬③
翌朝。
まだ空気に冷たさが残る時間。
タワーマンションのエントランス前には、黒塗りの高級車が静かに停まっていた。
運転手が後部座席のドアを開ける。
運転手「おはようございます、旦那様。」
夫「ああ。」
夫は無駄のない動きで車に乗り込む。
その向かいの席には、すでに相馬が控えていた。タブレットと書類を膝に揃えている。
相馬「おはようございます。」
夫「おはよう。」
ドアが閉まり、車は滑るように走り出す。
朝の街並みが流れていく。
車内は静かで、革張りのシートにかすかな香りが残る。
相馬が口を開く。
相馬「本日の会議ですが、先方は十時から参加予定です。資料の修正箇所を三点——」
夫「説明しろ。」
淡々としたやり取りが続く。
数字、提案、リスク、想定問答。
夫の表情は冷静で、的確に指示を出していく。
やがて一通りの確認が終わると、車内に短い沈黙が落ちた。
夫は窓の外を見たまま、何気ない声で言う。
夫「……昨日。」
相馬はわずかに姿勢を正す。
相馬「はい。」
夫「妻と話したな?」
相馬「はい。奥様と軽くお話いたしました」
その言葉に、夫の指がわずかに動く。
夫「何を話した。」
視線は窓の外。
声は低く、抑えられている。
相馬は一瞬だけ間を置いた。
相馬「書類の内容と、奥様の体調についてでございます。」
夫「それだけか。」
相馬「はい。」
短い沈黙。
夫はゆっくりと相馬に視線を向ける。
夫「他には。」
その視線は鋭い。
相馬は動じない。
相馬「……少しだけ、雑談を。」
夫「内容は。」
相馬は慎重に言葉を選ぶ。
相馬「奥様が、社長のご体調を気にされておりました。」
それは事実だ。
嘘ではない。
夫の眉がわずかに動く。
夫「俺の体調?」
相馬「はい。お忙しいご様子なので、と。」
再び沈黙。
夫の胸の奥で、わずかな違和感が渦を巻く。
——それだけか?
だが、相馬の表情はいつも通り冷静だ。
夫「……お前は、余計なことは言っていないだろうな。」
相馬「もちろんでございます。」
相馬の声は落ち着いている。
相馬「奥様は、常に丁寧でいらっしゃいます。私から踏み込んだ話をすることはございません。」
夫はしばらく相馬を見つめたあと、視線を戻す。
夫「今後、書類の受け渡しはうちのメイドを通せ。」
相馬「承知いたしました。」
夫「妻は外部の人間と話す必要はない。」
言葉は冷たいが、どこか焦りが混じる。
相馬は静かに答える。
相馬「かしこまりました。」
車は信号で止まる。
朝日が車内に差し込み、夫の横顔を照らす。
相馬はその横顔を見ながら、心の中で思う。
——やはり、気にされている。
だが、それを口に出すことはない。
夫は腕を組む。
夫「……どんな様子だった。」
不意の問い。
相馬「はい?」
夫「妻は。」
相馬は慎重に答える。
相馬「穏やかでいらっしゃいました。」
夫「……そうか。」
夫の胸の奥に、また小さなざわめきが走る。
穏やか。
それが、余計に想像を掻き立てる。
どんな微笑みだったのか。
どんな目で相馬を見ていたのか。
夫はそれを知らない。
知らないことが、気に入らない。
だが、それ以上は問わなかった。
夫「もういい。」
相馬「はい。」
車は再び走り出す。
相馬は資料を開きながら、静かに思う。
——奥様は、旦那様の誕生日を本気で考えておられた。
あの柔らかな目を、思い出す。
だがそれは、
今はまだ、秘めておくべきことだった。




