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終わらぬ転落  作者: ありり
転機
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空いた薬指の夜② 〜佐川の胸の内〜

――床を磨きながら、私は視線を上げない。


けれど、耳は嫌でも拾ってしまう。


「今度、見に行くか」


「指輪」


その言葉が、胸の奥に小さな棘のように刺さる。


結婚指輪。


私にも、あった。


左手の薬指に、確かに重みを感じていた時期がある。


あれは、私が全額出したものだった。


「どうせ買うなら、ちゃんとしたものにしよう」


そう言ったのは自分だ。


元夫は笑っていた。

「そこまでしなくていい」と言いながら、止めもしなかった。


結局、支払いはすべて私。


当時の彼女にとっては、痛くも痒くもない額だった。

むしろ、誇らしかった。


“私が支えられる”

“私が与えられる”


そう思っていた。


けれど――


離婚のとき。


宝石箱を開けたあの日。


静まり返った部屋で、指輪を外したときの、あの指の軽さ。


金属の冷たい輪が、テーブルに置かれる音。


「これも、売るの?」


質屋で、淡々とした声に問われた。


「はい」


査定額を聞いて、少しだけ笑ってしまった。


あれほど意味を込めて選んだ指輪が、

数字にすると、驚くほど小さかった。


焼け石に水。


それでも、借金の山に投げ込んだ。


指輪は消え、借金はほとんど減らない。


それでも――

“もう戻れない”という現実だけは、はっきりした。


今、左手を見る。


雑巾を握る手。

洗剤で荒れた指先。

爪の根元は白く乾燥している。


薬指は、細くなった。


そこには何もない。


はめる予定もない。


夫婦の会話が、また耳に入る。


「形に残るものが増えていくわね」


「記憶だけでは曖昧になる」


佐川の胸の奥で、何かがひっそりと沈む。


形に残るもの。


自分の結婚は、形も、記憶も、金額も、

すべて溶けてしまった。


“自分はもう、左手薬指に指輪をはめることはないんだろう”


そんな考えが、自然に浮かぶ。


いまの生活が続く限り。


借金がある限り。


この家で、床を磨き続ける限り。


誰かの隣に並ぶ資格など、ない。


私はそっと、左手の薬指を親指でなぞる。


何もない。


軽い。


あまりにも軽い。


「佐川」


冷たい声が落ちる。


「はい、奥様」


「手が止まってるわよ」


「申し訳ございません」


慌てて雑巾を動かす。


床に映る夜景の光が、ゆらゆらと揺れる。


もしあのまま結婚が続いていたら――


そんな仮定は、もう意味がない。


指輪は売った。

過去も売った。


残ったのは、借金と、

この茶色の毛玉だらけのカーディガン。


そして、空白の薬指。


それでも、不思議と涙は出ない。


もう泣き尽くしたからかもしれない。


夫婦の笑い声が、柔らかく響く。


その音は遠い。


まるで、厚いガラス越しの別世界。


私は床を磨き続ける。


光が映るように。

跡が残らないように。


自分の痕跡も、何もかも消すように。


左手の薬指は、今日も静かに空いたままだった。

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