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雨のち晴れ  作者: ありり
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女王の変化②

――妊娠16週。


安定期に入った、と医師は言った。


だが、つわりは終わっていなかった。



休日の朝。


タワーマンションの高層階。大きな窓から柔らかな光が差し込む。


寝室のベッドで、妻はゆっくりと目を開ける。


隣には既に起きている夫。今日はスーツではなく、黒のシンプルなニットにスラックス。休日の、少しだけ力を抜いた装いだが、姿勢は相変わらず端正だ。


夫「……気分はどうだ」


低く落ち着いた声。


妻は枕に頬を沈めたまま、静かに答える。


妻「朝はまだ、だめね……」


夫は眉をわずかに寄せる。


夫「吐き気か?」


妻「ええ。でも、前よりは……波があるだけ」


夫は黙って妻の額に手を当てる。


夫「熱はないな」


妻「あなた、医者みたい」


夫「必要とあらば、なる」


淡々とした返答。


妻は小さく息を吐き、目を閉じる。


妻「……今日は、仕事は?」


夫「休みだ。今日は俺がいる」


その一言に、妻の指先がわずかにシーツを掴む。


妻「そう……」


その声は、わずかに安堵を含んでいた。



コンコン、と控えめなノック。


佐川「奥様、旦那様。お目覚めでしょうか」


佐川の声だ。


夫「入れ」


夫が短く言う。


ドアが静かに開く。エプロン姿の佐川。以前よりも姿勢はさらに整い、動きに無駄がない。


佐川「奥様、白湯をご用意しております。少しでもお口にできればと」


妻はゆっくりと身体を起こす。


佐川はすぐに背中へクッションを差し込む。


妻「……」


妻は一瞬だけ、佐川の手元を見る。


震えてはいない。


丁寧で、確実な手つき。


妻は白湯を少し口に含み、ゆっくりと飲み込む。


妻「……今日は、においは平気?」


佐川「はい。香りの強いものは避けております。朝食は旦那様には別室でご用意いたします」


夫が言う。


夫「俺はここでいい」


佐川は一瞬だけ迷う。


妻が視線を向ける。


妻「……においが、きつくなければ、ここでいいわ」


佐川「承知いたしました」


佐川は深く頭を下げ、静かに部屋を出ていく。



朝食は極めて軽いものだった。


夫にはトーストと卵料理。妻にはクラッカーとりんごのすりおろし。


夫はフォークを置き、妻を見る。


夫「無理はするな」


妻「してないわ」


夫「顔色は良くない」


妻「あなたの顔のほうが険しいですよ」


夫は一瞬、口元をわずかに緩める。


その様子を、少し離れた位置から佐川が見守っている。


佐川「奥様、横になられますか」


妻「……ええ」


佐川はすぐにブランケットを持ってくる。


妻が横になろうとしたとき、ふらつく。


夫がすぐに腕を支える。


夫「気をつけろ」


妻「大げさよ」


だが、妻は夫の腕を離さない。


佐川が静かに足元へブランケットをかける。


妻「……佐川」


佐川「はい、奥様」


妻はほんの一拍、間を置いてから言う。


妻「……ありがとう」


静かな空気が流れる。


夫が視線を上げる。


佐川の目が、ほんのわずかに揺れる。


佐川「……もったいないお言葉でございます」


深く、丁寧に頭を下げる。


それ以上、何も言わない。


謝罪もない。許しもない。


だが、その一言は確かにあった。



昼前。


妻は少し落ち着き、ソファで休んでいる。


夫は隣に座り、タブレットを閉じる。


夫「散歩はどうだ」


妻「今は無理ね」


夫「では、バルコニーに出るか」


佐川がすぐに声をかける。


佐川「日差しは強くありません。椅子をご用意いたします」


三人でゆっくりと移動する。


高層階のバルコニー。


街が遠くに広がる。


妻は椅子に座り、深呼吸する。


妻「……安定期、なのよね」


夫「医師はそう言った」


妻「でも、楽にはならないものね」


夫が静かに答える。


夫「お前は、弱音を吐かない」


妻「吐いていますよ、今」


夫「俺の前でだけだ」


妻は夫を見る。


妻「当たり前でしょう」


そのやり取りを、少し後ろで控える佐川。


風が妻の髪を揺らす。


佐川はすぐにブランケットを肩にかける。


佐川「冷えます」


妻は視線だけで佐川を見る。


冷たい目ではない。


だが、柔らかくもない。


妻「……気が利くようになったのね」


佐川「務めでございます」


妻「使命感でも芽生えた?」


一瞬の沈黙。


佐川「……はい。奥様とお腹のお子様にお仕えすることが、今の私のすべてでございます」


真っ直ぐな言葉。


夫が佐川を見る。


妻は目を細める。


妻「……大げさね」


だが、否定はしない。


妻「掃除は、時間があるときでいいわ」


妻が言う。


妻「あなたは私の側にいなさい。外出も増えるでしょうし」


佐川は深く頭を下げる。


佐川「承知いたしました」


夫が口を開く。


夫「買い物は俺が行く」


妻「あなたが?」


夫「休日くらいは」


妻がふっと笑う。


妻「クールな社長が、スーパー?」


夫「問題あるか」


妻「……ありません」


佐川が小さく言う。


佐川「食材の一覧をお渡しいたします」


夫「頼む」


夫は立ち上がる。


妻がその背中を見つめる。


妻は「……あの人、変わったわね」


佐川は静かに答える。


佐川「はい。奥様を想うお気持ちが、以前よりも…」


妻「言わなくていいわ」


妻が遮る。


しばし沈黙。


そして、ぽつり。


妻「……でも、悪くない」


佐川は顔を上げない。


佐川「はい」


妻は遠くの空を見る。


まだ佐川を許してはいない。


過去の冷酷さを謝罪するつもりもない。


それでも。


妻「……佐川」


佐川「はい」


妻「倒れたら困るのは、あなたも同じよ」


佐川「……」


妻「私が動けない間、あなたが倒れたら、回らないわ」


それは、優しさではない。


だが、完全な拒絶でもない。


佐川の胸の奥が熱くなる。


佐川「……はい。万全を期します」


妻は視線を戻す。


妻「当然よ」


だが、その声は、以前ほど鋭くはなかった。


風が三人の間を通り抜ける。


高層階の静かな午後。


使命感を抱く使用人と、


女王と、そのクールな夫。


不安定な均衡の中で、


確かに、何かが少しずつ変わり始めていた。

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