女王の変化②
――妊娠16週。
安定期に入った、と医師は言った。
だが、つわりは終わっていなかった。
◇
休日の朝。
タワーマンションの高層階。大きな窓から柔らかな光が差し込む。
寝室のベッドで、妻はゆっくりと目を開ける。
隣には既に起きている夫。今日はスーツではなく、黒のシンプルなニットにスラックス。休日の、少しだけ力を抜いた装いだが、姿勢は相変わらず端正だ。
夫「……気分はどうだ」
低く落ち着いた声。
妻は枕に頬を沈めたまま、静かに答える。
妻「朝はまだ、だめね……」
夫は眉をわずかに寄せる。
夫「吐き気か?」
妻「ええ。でも、前よりは……波があるだけ」
夫は黙って妻の額に手を当てる。
夫「熱はないな」
妻「あなた、医者みたい」
夫「必要とあらば、なる」
淡々とした返答。
妻は小さく息を吐き、目を閉じる。
妻「……今日は、仕事は?」
夫「休みだ。今日は俺がいる」
その一言に、妻の指先がわずかにシーツを掴む。
妻「そう……」
その声は、わずかに安堵を含んでいた。
◇
コンコン、と控えめなノック。
佐川「奥様、旦那様。お目覚めでしょうか」
佐川の声だ。
夫「入れ」
夫が短く言う。
ドアが静かに開く。エプロン姿の佐川。以前よりも姿勢はさらに整い、動きに無駄がない。
佐川「奥様、白湯をご用意しております。少しでもお口にできればと」
妻はゆっくりと身体を起こす。
佐川はすぐに背中へクッションを差し込む。
妻「……」
妻は一瞬だけ、佐川の手元を見る。
震えてはいない。
丁寧で、確実な手つき。
妻は白湯を少し口に含み、ゆっくりと飲み込む。
妻「……今日は、においは平気?」
佐川「はい。香りの強いものは避けております。朝食は旦那様には別室でご用意いたします」
夫が言う。
夫「俺はここでいい」
佐川は一瞬だけ迷う。
妻が視線を向ける。
妻「……においが、きつくなければ、ここでいいわ」
佐川「承知いたしました」
佐川は深く頭を下げ、静かに部屋を出ていく。
◇
朝食は極めて軽いものだった。
夫にはトーストと卵料理。妻にはクラッカーとりんごのすりおろし。
夫はフォークを置き、妻を見る。
夫「無理はするな」
妻「してないわ」
夫「顔色は良くない」
妻「あなたの顔のほうが険しいですよ」
夫は一瞬、口元をわずかに緩める。
その様子を、少し離れた位置から佐川が見守っている。
佐川「奥様、横になられますか」
妻「……ええ」
佐川はすぐにブランケットを持ってくる。
妻が横になろうとしたとき、ふらつく。
夫がすぐに腕を支える。
夫「気をつけろ」
妻「大げさよ」
だが、妻は夫の腕を離さない。
佐川が静かに足元へブランケットをかける。
妻「……佐川」
佐川「はい、奥様」
妻はほんの一拍、間を置いてから言う。
妻「……ありがとう」
静かな空気が流れる。
夫が視線を上げる。
佐川の目が、ほんのわずかに揺れる。
佐川「……もったいないお言葉でございます」
深く、丁寧に頭を下げる。
それ以上、何も言わない。
謝罪もない。許しもない。
だが、その一言は確かにあった。
◇
昼前。
妻は少し落ち着き、ソファで休んでいる。
夫は隣に座り、タブレットを閉じる。
夫「散歩はどうだ」
妻「今は無理ね」
夫「では、バルコニーに出るか」
佐川がすぐに声をかける。
佐川「日差しは強くありません。椅子をご用意いたします」
三人でゆっくりと移動する。
高層階のバルコニー。
街が遠くに広がる。
妻は椅子に座り、深呼吸する。
妻「……安定期、なのよね」
夫「医師はそう言った」
妻「でも、楽にはならないものね」
夫が静かに答える。
夫「お前は、弱音を吐かない」
妻「吐いていますよ、今」
夫「俺の前でだけだ」
妻は夫を見る。
妻「当たり前でしょう」
そのやり取りを、少し後ろで控える佐川。
風が妻の髪を揺らす。
佐川はすぐにブランケットを肩にかける。
佐川「冷えます」
妻は視線だけで佐川を見る。
冷たい目ではない。
だが、柔らかくもない。
妻「……気が利くようになったのね」
佐川「務めでございます」
妻「使命感でも芽生えた?」
一瞬の沈黙。
佐川「……はい。奥様とお腹のお子様にお仕えすることが、今の私のすべてでございます」
真っ直ぐな言葉。
夫が佐川を見る。
妻は目を細める。
妻「……大げさね」
だが、否定はしない。
妻「掃除は、時間があるときでいいわ」
妻が言う。
妻「あなたは私の側にいなさい。外出も増えるでしょうし」
佐川は深く頭を下げる。
佐川「承知いたしました」
夫が口を開く。
夫「買い物は俺が行く」
妻「あなたが?」
夫「休日くらいは」
妻がふっと笑う。
妻「クールな社長が、スーパー?」
夫「問題あるか」
妻「……ありません」
佐川が小さく言う。
佐川「食材の一覧をお渡しいたします」
夫「頼む」
夫は立ち上がる。
妻がその背中を見つめる。
妻は「……あの人、変わったわね」
佐川は静かに答える。
佐川「はい。奥様を想うお気持ちが、以前よりも…」
妻「言わなくていいわ」
妻が遮る。
しばし沈黙。
そして、ぽつり。
妻「……でも、悪くない」
佐川は顔を上げない。
佐川「はい」
妻は遠くの空を見る。
まだ佐川を許してはいない。
過去の冷酷さを謝罪するつもりもない。
それでも。
妻「……佐川」
佐川「はい」
妻「倒れたら困るのは、あなたも同じよ」
佐川「……」
妻「私が動けない間、あなたが倒れたら、回らないわ」
それは、優しさではない。
だが、完全な拒絶でもない。
佐川の胸の奥が熱くなる。
佐川「……はい。万全を期します」
妻は視線を戻す。
妻「当然よ」
だが、その声は、以前ほど鋭くはなかった。
風が三人の間を通り抜ける。
高層階の静かな午後。
使命感を抱く使用人と、
女王と、そのクールな夫。
不安定な均衡の中で、
確かに、何かが少しずつ変わり始めていた。




