女王の変化①
――妊娠10週目。
出産予定日は、3月7日。
診察室で医師にそう告げられ、母子手帳を受け取った瞬間。
妻は、その小さな冊子を両手で包み込むように持った。
淡い色の表紙。
そこに書かれた「母子健康手帳」という文字。
それを見つめながら、胸の奥が、静かに震えた。
⸻
帰宅後。
リビングの大きな窓から、冬の光が差し込んでいる。
ソファに腰掛けた妻は、母子手帳を何度も開いては閉じる。
「……3月7日。」
小さく呟く。
37歳。
結婚して4年。
夫に、子どもを与えられなかった4年間。
(やっと……やっとなのね)
喉の奥が熱くなる。
⸻
玄関のドアが開く音。
夫「ただいま。」
低く落ち着いた声。
妻はすぐに母子手帳を閉じる。
感情を見せるのは、得意ではない。
妻「おかえりなさい。」
夫がコートを脱ぎながら、まっすぐ妻を見る。
夫「体調はどうだ?」
妻「……悪くないわ。」
実際は、朝から何も食べられていない。
胃の奥が波打つように気持ち悪い。
夫はゆっくり近づき、隣に腰を下ろす。
夫「無理をするな。」
妻「していないわ。」
夫「顔色が良くない。」
妻は少しだけ視線を逸らす。
妻「……母子手帳、もらったの。」
夫の視線が手元に落ちる。
夫「そうか。」
妻「予定日は、3月7日。」
夫「覚えておく。」
その一言が、なぜか胸に刺さる。
夫は母子手帳を手に取り、静かにページをめくる。
夫「ここに、父の名前を書く欄がある。」
妻「ええ。」
夫「俺の字でいいか。」
妻は一瞬だけ驚いたように目を見開く。
妻「……もちろんです」
夫がペンを取り、丁寧に自分の名前を書く。
その横顔は、いつもと変わらずクールで、整っている。
だがその指先は、わずかに慎重だった。
(この人の子どもを、私は産むのね)
ようやく実感が湧く。
妻「ありがとう。」
妻がそう言うと、夫は視線を上げる。
夫「何に対してだ?」
妻「……ここに、名前を書いてくれて。」
夫は一瞬だけ目を細める。
夫「当然だ。俺の子だ。」
その言葉は、強く、揺るがない。
妻の胸が締め付けられる。
⸻
キッチンから、食器の触れ合う音。
佐川だ。
最近は、ほとんど彼女が食事を準備している。
以前なら――
「遅いわ。」
「味が薄い。」
「やり直しなさい。」
冷たい言葉を、ためらいなく浴びせていた。
だが今は。
その余裕がない。
悪阻が辛くて、立っているだけで息が荒くなる。
感情をぶつける体力すら、残っていない。
夫が立ち上がる。
夫「夕食は無理に食べなくていい。」
妻「……少しは食べるわ。」
夫「匂いがきついなら、部屋を変える。」
妻「そこまでしなくて大丈夫です」
言いながらも、胃の奥がひっくり返りそうになる。
夫はキッチンへ向かう。
夫「佐川。」
佐川「はい、旦那様。」
夫「匂いの強いものは避けろ。」
佐川「承知いたしました。」
静かなやり取り。
以前のように、妻が口を挟むことはない。
⸻
テーブルに並ぶ、あっさりとした料理。
湯気を見た瞬間、妻は顔を背ける。
妻「……ごめんなさい。」
思わず漏れる。
佐川が一瞬だけ目を上げる。
佐川「奥様、お口に合いませんでしたか。」
その声は、以前よりも柔らかい。
妻は首を横に振る。
妻「違うの……私の、体調の問題よ。」
沈黙。
かつての妻なら、
「もっと考えて作りなさい」と責めていた。
だが今は。
責める力がない。
(この子がいるから……)
腹部にそっと手を当てる。
まだ膨らみはない。
それでも確かに、そこに命がある。
夫が水を差し出す。
夫「無理はするな。」
妻「……はい」
かすかな肯定。
⸻
その夜。
寝室。
ベッドに横になりながら、母子手帳を胸に抱く。
夫が隣で静かに本を閉じる。
夫「不安か。」
妻「……少し。」
夫「何がだ。」
妻「37歳よ。初産。何が起きるかわからない。」
沈黙。
夫「俺がいる。」
短い言葉。
夫「何かあれば、全部俺が引き受ける。」
妻「……あなたは、引き受けられないこともあるわ。」
夫「それでもだ。」
夫の手が、そっと妻の手を握る。
強くはない。
だが、離れない力。
夫「お前は一人じゃない。」
その言葉を聞いた瞬間。
妻の目から、静かに涙がこぼれる。
友人はいない。
相談相手もいない。
ずっと孤独だった。
冷酷でいる方が楽だった。
誰も近づかないから。
でも今は。
(私は、母になる)
冷たいままでいられるのだろうか。
佐川に対しても。
周囲に対しても。
変わらなければならないのかもしれない。
だがまだ――
素直にはなれない。
母子手帳を抱きしめながら、妻は小さく呟く。
妻「この子だけは……守る。」
夫が静かに答える。
夫「当然だ。」
部屋の灯りが消える。
暗闇の中、
妻は初めて、自分の未来を想像する。
3月7日。
その日、自分は母になる。
冷たい女のままではいられないかもしれない。
けれど今はまだ、
ただ静かに、この小さな命を感じていた。




