表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
終わらぬ転落  作者: ありり
転機
75/181

シャッター音と雑巾の音③ 〜夫の胸の内〜

スマホの画面に映る、猫カフェの写真。


ふわふわの子猫を抱いて笑う妻。

その隣で、思いのほか柔らかい顔をしている自分。


(……こんな顔をしていたのか)


普段、鏡で見る自分はもっと無表情だ。

仕事の顔。交渉の顔。揺らがない男の顔。


だがあの日、妻の隣で写った自分は違った。


自然に、口元が緩んでいる。


それを見て、胸の奥がじわりと温かくなる。


「あなたの写真、もっと欲しいの」


妻の声が耳に残る。


俺は一瞬だけ視線を逸らしたが、本当は――


(俺も、欲しい)


口には出さない。


だが本音は同じだった。


もっと、妻の笑った顔を残したい。

もっと、自分の隣にいる姿を形にしたい。


写真は証拠だ。


この時間が確かにあったという証拠。

この距離が、本物だという証拠。


仕事は形が残る。

数字や契約で証明される。


だが、夫婦の時間は残らない。


だからこそ、残したいと思った。


「今、撮るか」


あれは軽い提案のようでいて、実は半分は本気だった。


今の妻は、自然だ。

飾っていない。

自分に向ける視線が、柔らかい。


その瞬間を、逃したくなかった。


カメラを向けたとき、彼の心は少しだけ高鳴っていた。


(もっと撮りたい)


旅行先で。

レストランで。

何でもないこのリビングでも。


佐川が床を磨いている背後でさえ、

二人の時間は確かに存在している。


視界の端に、茶色のカーディガンが映る。


変わらない日常。


だが、妻の体温は確かに近くなっている。


猫カフェ以降、妻はよく甘える。


写真を欲しがる。

一緒に写りたがる。


それが嬉しい。


(俺が必要だと、ちゃんと分かる)


強い妻が、自分だけに見せる柔らかさ。


その瞬間を残したい。


自分のスマホの中を、妻で埋めたい。


口には出さないが、彼はもう考えている。


次はどこへ行くか。

どんな場所なら、妻が一番きれいに笑うか。


夜景の見えるレストランか。

海か。

静かなホテルのテラスか。


「もっと一緒に撮りたい」


妻が言ったとき、俺の胸は確かに高鳴った。


(俺もだ)


だがそれをそのまま返すのは、少し照れくさい。


だから顎を持ち上げる。

少し意地悪に問いかける。


「そんなに俺と写りたいか」


本当は逆だ。


自分の方が、妻と写りたい。


自分の人生に、彼女がいるという証を、

目に見える形で持っておきたい。


仕事が忙しくても、

距離ができそうなときでも、

画面を開けばそこにいる。


笑う妻が。


寄り添う二人が。


俺はそっと妻の腰に手を回す。


(もっと増やそう)


写真も、時間も。


この家の中で築かれている絆を、

ちゃんと残していこう。


背後で、ガラスを磨く音が続く。


変わらない日常の中で、


俺は静かに決めていた。


次の休日、

自分から「写真を撮ろう」と言おうと。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ