シャッター音と雑巾の音③ 〜夫の胸の内〜
スマホの画面に映る、猫カフェの写真。
ふわふわの子猫を抱いて笑う妻。
その隣で、思いのほか柔らかい顔をしている自分。
(……こんな顔をしていたのか)
普段、鏡で見る自分はもっと無表情だ。
仕事の顔。交渉の顔。揺らがない男の顔。
だがあの日、妻の隣で写った自分は違った。
自然に、口元が緩んでいる。
それを見て、胸の奥がじわりと温かくなる。
「あなたの写真、もっと欲しいの」
妻の声が耳に残る。
俺は一瞬だけ視線を逸らしたが、本当は――
(俺も、欲しい)
口には出さない。
だが本音は同じだった。
もっと、妻の笑った顔を残したい。
もっと、自分の隣にいる姿を形にしたい。
写真は証拠だ。
この時間が確かにあったという証拠。
この距離が、本物だという証拠。
仕事は形が残る。
数字や契約で証明される。
だが、夫婦の時間は残らない。
だからこそ、残したいと思った。
「今、撮るか」
あれは軽い提案のようでいて、実は半分は本気だった。
今の妻は、自然だ。
飾っていない。
自分に向ける視線が、柔らかい。
その瞬間を、逃したくなかった。
カメラを向けたとき、彼の心は少しだけ高鳴っていた。
(もっと撮りたい)
旅行先で。
レストランで。
何でもないこのリビングでも。
佐川が床を磨いている背後でさえ、
二人の時間は確かに存在している。
視界の端に、茶色のカーディガンが映る。
変わらない日常。
だが、妻の体温は確かに近くなっている。
猫カフェ以降、妻はよく甘える。
写真を欲しがる。
一緒に写りたがる。
それが嬉しい。
(俺が必要だと、ちゃんと分かる)
強い妻が、自分だけに見せる柔らかさ。
その瞬間を残したい。
自分のスマホの中を、妻で埋めたい。
口には出さないが、彼はもう考えている。
次はどこへ行くか。
どんな場所なら、妻が一番きれいに笑うか。
夜景の見えるレストランか。
海か。
静かなホテルのテラスか。
「もっと一緒に撮りたい」
妻が言ったとき、俺の胸は確かに高鳴った。
(俺もだ)
だがそれをそのまま返すのは、少し照れくさい。
だから顎を持ち上げる。
少し意地悪に問いかける。
「そんなに俺と写りたいか」
本当は逆だ。
自分の方が、妻と写りたい。
自分の人生に、彼女がいるという証を、
目に見える形で持っておきたい。
仕事が忙しくても、
距離ができそうなときでも、
画面を開けばそこにいる。
笑う妻が。
寄り添う二人が。
俺はそっと妻の腰に手を回す。
(もっと増やそう)
写真も、時間も。
この家の中で築かれている絆を、
ちゃんと残していこう。
背後で、ガラスを磨く音が続く。
変わらない日常の中で、
俺は静かに決めていた。
次の休日、
自分から「写真を撮ろう」と言おうと。




