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雨のち晴れ  作者: ありり
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人生の転機⑦ 〜妻の胸の内〜

――妊娠七週。


病院の白い天井を見上げながら、私は静かに呼吸を整えていた。


「心拍、確認できますね」


医師の声は穏やかだった。


モニターの奥で、小さな点が、規則正しく瞬いている。


それが――私の中にいる命。


三十七歳。


世間では「高齢出産」という言葉が、遠慮なく投げつけられる年齢だ。


結婚して四年。

夫は三十歳。若く、隣に立てば誰もが振り返るほど整っている。

そんな彼の妻が、私だ。 


何度も考えた。


――もし、私に子どもができなかったら?


彼は何も言わない。

責めたこともない。


むしろ、「二人でも十分だ」と言った。


嬉しかった、でも余計に怖かった。


優しさは、時に残酷だ。

彼の人生の可能性を、私が奪っているのではないかという疑念は完全には消えない


その疑念が、ほんの少しだけ形を変えた。


「おめでとうございます」


医師の言葉を聞いた瞬間、

胸の奥で凍りついていた何かが、ひび割れた。


嬉しい。


けれど同時に――恐ろしい。


七週。

まだ何が起きてもおかしくない時期。

ネットで見た数字、統計、流産率。

頭は冷静に計算を始める。


期待して、失ったら?


私は、耐えられるのだろうか。


私は車の中で目を閉じた。


三十歳の彼に、ようやく与えられる「父」という未来。


私は、彼にふさわしい母になれるのだろうか。


三十七歳の身体。

若くはない。

完璧でもない。


けれど。


モニターに映った小さな鼓動は、

確かに、私の中で鳴っていた。


タワーマンションの高層階。

エレベーターの鏡に映る自分を見つめる。


凛としていなければならない。

私はこの家の妻であり、主人だ。


佐川が玄関を拭いている。


「お帰りなさいませ、奥様」


淡々とした声。


私は一瞬、彼女を見下ろし、

無意識に腹部へ手を当てた。


――まだ誰にも言わない。


この命は、まだ私だけのもの。


もし失ったら?

その時、同情の視線を浴びるのは嫌だ。

弱い女だと思われるのも、哀れまれるのも。


だから私は冷たくなる。


「床の拭き残しがあるわ。やり直しなさい」


声は静かで、感情を含まない。


本当は、怖いだけだ。


幸せが、こぼれ落ちないように。

期待が膨らみすぎないように。

誰にも触れさせないように。


私は鎧を着る。


夜。


ソファに座り、再びそっとお腹に触れる。


「……あなたは、ちゃんと生きているのね」


小さな鼓動を思い出す。


私は今まで、

強くあろうとしすぎたのかもしれない。


でも、弱くなるわけにはいかない。


この命を守るためにも。

彼の未来を守るためにも。


嬉しい。


本当は、泣きたいほど嬉しい。


けれど涙は見せない。


三十七歳の私は、

まだ“喜び方”を忘れている。


ただ一つ確かなのは――


あの小さな心臓の音が、

私の世界を、確実に変え始めているということ。

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