人生の転機⑥
夕方。
車がタワーマンションのエントランスに滑り込む。
エレベーターを上がり、玄関の扉が開くと、
佐川がすぐに頭を下げた。
佐川「おかえりなさいませ」
その声は、いつもよりわずかに慎重だ。
夫が短く答える。
夫「ただいま」
妻は柔らかく微笑む。
妻「ただいま」
その表情に、佐川は一瞬目を上げかけて、すぐに伏せた。
どこか空気が違う。
夫は靴を脱ぎながら言う。
夫「佐川」
佐川「はい」
夫「浴室を徹底的に掃除しろ」
佐川「かしこまりました」
夫「その後、風呂を沸かせ。温度はいつもより一度低く」
佐川が一瞬だけ視線を上げる。
佐川「……承知いたしました」
夫「香りの強い入浴剤は使うな」
佐川「はい」
命令は淡々としている。
だがその内容は、明らかに“配慮”だ。
妻が横から小さく言う。
妻「そこまでしなくても」
夫は視線を落とす。
夫「冷えは禁物だ」
妻「先生みたい」
夫「今日の医者の言葉を忘れたか」
妻は少し笑う。
佐川はそのやり取りを静かに聞きながら、浴室へ向かった。
―――
リビング。
妻がバッグを置き、キッチンへ向かう。
エプロンを手に取る。
夫「何をしている」
夫がすぐに気づく。
妻「夕食の準備よ」
夫「やめろ」
即答。
夫「今日は外で頼めばいい」
妻「大丈夫よ」
夫「安定期ではない」
妻「わかってます」
妻はエプロンを結びながら振り返る。
妻「でも、料理したいの」
夫が眉を寄せる。
夫「疲れているだろう」
妻「ううん」
妻はキッチンカウンターに手を置く。
妻「今日は、なんだか作りたい気分です」
夫「理由は」
妻「心拍、聞いたから」
その一言で、夫は黙る。
妻は続ける。
妻「実感が湧いてきたの。だから、ちゃんと食べたいし、あなたにもちゃんと食べてほしい」
夫「無理はするな」
妻「無理はしません」
少し柔らかい声。
妻「立ちっぱなしにはならないし、重いものも持たない」
夫は数秒考える。
夫「……俺がやる」
妻「あなたが?」
夫「指示を出せ」
妻は吹き出す。
妻「それ、料理じゃないわ」
夫「問題ない」
妻「味が心配」
夫「否定しない」
妻がくすくす笑う。
妻「じゃあ、一緒にやりましょう」
夫「……手伝うだけだ」
妻「はいはい」
キッチンに並ぶ二人。
以前なら考えられない光景。
妻が野菜を切る。
夫が隣でボウルを持つ。
妻「塩は少なめで」
夫「どの程度だ」
妻「その半分」
夫「曖昧だ」
妻「味見して」
夫が少しだけ口にする。
夫「薄い」
妻「それでいいの」
夫「物足りない」
妻「今はそれが正解」
夫は黙って頷く。
妻「火、弱めて」
夫「これでいいか」
妻「もう少し」
妻が手を伸ばしかけると、夫が先にコンロを調整する。
夫「触るな」
妻「大袈裟です」
夫「念のためだ」
妻は横目で見る。
その横顔は真剣だ。
以前の冷静さとは少し違う。
守る側の顔。
妻「……嬉しいです」
ぽつりと漏らす。
夫は動きを止める。
夫「何が」
妻「あなたがこんなに気にしてくれるの」
夫「当然だ」
妻「でも、ちょっと過保護」
夫「自覚している」
妻は小さく笑い、鍋をかき混ぜる。
夫「三月か」
夫「まだ先だ」
妻「長いわね」
夫「長くていい」
その声は、穏やかだが強い。
料理が完成する。
質素だが、温かい食卓。
二人で向かい合う。
夫が言う。
夫「量はこれで十分か」
妻「うん」
夫「無理はするな」
妻「あなた、そればっかり」
夫「何度でも言う」
妻は箸を持ち、ゆっくりと口に運ぶ。
妻「おいしいです」
夫「本当か」
妻「本当よ」
夫はわずかに安堵する。
その表情は、以前より柔らかい。
浴室から戻った佐川が、遠くで控えている。
キッチンに並ぶ二人の姿。
並んで立つ距離が、以前より近い。
この家の空気は、確実に変わり始めている。
冷酷さの中に、
新しい温度が混じり始めていた。




