人生の転機⑤
三週間後。
午前中の柔らかな光が、病院の廊下に差し込んでいる。
夫はスーツではなく、落ち着いた私服姿。
仕事を調整し、完全に予定を空けていた。
夫「緊張してるのか」
待合室で、夫が低く聞く。
妻は小さく笑う。
妻「少しだけ」
夫「顔色は悪くない」
妻「あなたの方が硬い顔してますよ」
夫は否定しない。
名前が呼ばれる。
診察室。
静かな空気。
医師がモニターを見つめ、プローブを動かす。
妻は無言で天井を見ている。
夫はその手を握る。
冷たい。
そして――
医師「心拍、確認できますね」
モニターから、かすかな点滅。
音が、微かに響く。
トク、トク、トク……
小さく、でも確かに。
妻の目が潤む。
夫の指先に、わずかな力が入る。
医師「順調です。ただ、まだ初期ですからね。安定期までは無理は禁物です」
夫「……はい」
夫が短く答える。
診察室を出た瞬間。
妻は立ち止まる。
妻「聞こえたわね」
夫「……ああ」
声が少し低い。
妻「ちゃんと、いました」
夫は深く息を吐く。
夫「いたな」
二人はしばらく無言で立っている。
言葉にすると壊れそうで。
車に乗り込む。
ドアが閉まり、外界の音が遮断される。
妻が窓の外を見ながら言う。
妻「予定日は三月ですって」
夫「三月か」
夫は少し考える。
夫「まだ先だな」
妻「長いわね」
夫「長くていい」
即答。
妻は笑う。
妻「慎重ですね」
夫「当然だ」
夫は妻の手を取り、腹部に軽く視線を落とす。
夫「心拍が聞こえた」
妻「ええ」
夫「思っていたより……」
言葉を探す。
夫「現実だった」
妻が小さく頷く。
妻「私も」
しばらく静かな時間。
やがて妻が思い出したように言う。
妻「秋の京都旅行、どうする?」
紅葉の時期に計画していた。
老舗旅館、庭園、静かな夜。
夫は一瞬考え、すぐに答える。
夫「取りやめだ」
迷いはない。
妻「やっぱり?」
夫「無理をする理由がない」
妻「でも、体調が良ければ」
夫「良くてもだ」
はっきりと。
夫「人混みも多い。移動も長い」
妻は少し名残惜しそうに微笑む。
妻「楽しみにしてたのに」
夫「また行ける」
夫の声は穏やかだが、揺るがない。
夫「今は優先順位が違う」
妻はその言葉に、ゆっくりと頷く。
妻「そうですね」
夫が続ける。
夫「体調を見ながら、近場でゆっくりする」
妻「近場?」
夫「車で一時間以内。人が少なくて、医療機関が近い場所」
妻が吹き出す。
妻「そこまで?」
夫「当然だ」
真顔。
夫「何かあったらすぐ戻れる距離がいい」
妻「過保護ね」
夫「自覚している」
妻はシートに身体を預ける。
妻「三月か……」
小さく呟く。
妻「春ね」
夫「寒さは残る」
妻「あなた、もう季節の心配してるの?」
夫「当然だ」
夫は真剣だ。
夫「出産時期の気温も重要だ」
妻はくすくす笑う。
妻「すっかり父親ね」
夫は否定しない。
夫「そうかもしれない」
車窓の外、街路樹が流れていく。
二人の間に流れる空気は、以前とは少し違う。
支配や駆け引きではない。
共有。
未来を、具体的に想像する時間。
妻がそっと言う。
妻「ありがとう。今日、来てくれて」
夫「当然だ」
妻「でも、仕事……」
夫「代わりはいる」
短く。
夫「だがこれは、俺しか立ち会えない」
妻の目が柔らかくなる。
夫は彼女の額に軽く触れる。
夫「無理をするな」
妻「わかっています」
夫「安定期までは特にだ」
妻「はい、先生」
夫が少しだけ笑う。
車は高層マンションへ向かって走る。
三月。
まだ遠い未来。
だが確かに、二人の中では形を持ち始めていた。




