人生の転機④
午後三時過ぎ。
夫のスマートフォンが震えた。
――《診てもらいました。帰ったら話します》
短いメッセージ。
それだけで胸がざわつく。
電話をかける指が一瞬動くが、止める。
(帰って聞く)
その日の仕事は、正直、頭に入らなかった。
昨日と同じ時間。
いや、昨日よりも早く、夫は会社を出た。
車内。
夫「急げ」
運転手は無言でアクセルを踏む。
胸の奥に、得体の知れない緊張が広がる。
悪い報告かもしれない。
それでも――
“話す”と言った。
声は落ち着いていた。
タワーマンションに到着。
エントランスを抜け、エレベーターに乗る。
いつもなら、扉が開くと同時に佐川が出迎える。
だが――
今日、玄関に立っていたのは妻だった。
淡い色のワンピース。
まだ少し顔色は白いが、まっすぐ立っている。
妻「……あなた」
夫は一瞬、言葉を失う。
夫「立っていて大丈夫なのか」
靴を脱ぐのも忘れたように近づく。
夫「無理をするなと言ったはずだ」
妻は小さく笑う。
妻「大丈夫よ」
夫「顔色はまだ戻っていない」
妻「さっきまで横になっていたわ」
夫「佐川は」
妻「寝室を掃除させている」
夫の目がわずかに細くなる。
夫「入れたのか」
妻「今日はいいの」
妻は夫の手を取る。
その手が、少し震えている。
妻「話があるの」
夫の喉がわずかに動く。
夫「結果か」
妻「ええ」
リビングに入る。
妻はソファに腰掛けるが、背筋は伸びている。
いつもの女王の姿勢。
だが目だけが、どこか柔らかい。
夫「……何だ」
夫の声は低い。
妻は一度、深呼吸する。
妻「四週目だそうよ」
一瞬、意味が繋がらない。
夫「……何の」
妻は夫をまっすぐ見つめる。
妻「妊娠」
空気が止まる。
妻「四週目」
もう一度、はっきりと。
夫の瞳がわずかに見開かれる。
夫「……本当か」
妻「うん」
夫「確定なのか」
妻「心拍はまだ。でも、検査では間違いないって」
沈黙。
数秒。
いや、数十秒。
夫の顔から、いつもの冷静さが消える。
理性的な線が崩れる。
夫「……そうか」
それだけ言ったが、声が掠れている。
妻はその表情を見て、少し目を細める。
妻「そんな顔、初めて見ます」
夫は答えない。
ただ、ゆっくりと妻の前に膝をつく。
両手で彼女の手を包む。
夫「体調が悪かったのは、それか」
妻「たぶん」
夫「なぜすぐ言わなかった」
妻「確信がなかったから」
夫は額を彼女の手に軽く押し当てる。
いつもなら考えられない仕草。
夫「……本当に」
声が低く、震える。
夫「俺たちの?」
妻は少し笑う。
妻「他に誰がいるの」
その瞬間。
夫が顔を上げる。
そこには、普段のクールさはない。
理性も、威厳も、冷酷さも。
ただ――
純粋な喜び。
目がわずかに潤んでいる。
夫「……ありがとう」
その言葉は、ほとんど無意識だった。
妻が驚く。
妻「あなたが言うの?」
夫「言う」
強く。
夫「無事に生まれるまで、何があっても守る」
妻「まだ四週目よ」
夫「関係ない」
夫は彼女の腹部に、そっと手を置く。
まだ何も変わらない、平らな身体。
それでも。
夫「ここにいるのか」
囁くように。
妻の目に、うっすら涙が浮かぶ。
妻「ええ」
夫は立ち上がり、彼女を抱きしめる。
これまでとは違う抱擁。
支配でも、確認でもない。
守るという本能。
夫「立つな。今すぐ座れ。いや、横になれ」
妻「さっき大丈夫って言ったのに」
夫「状況が変わった」
真剣な顔。
夫「明日から家事は減らせ」
妻「命令?」
夫「当然だ」
妻は笑う。
妻「強引ね」
夫「当たり前だ」
そしてもう一度、腹部に視線を落とす。
その表情は、完全に父親のものだった。
寝室の奥。
掃除を終えた佐川が、静かに息を呑む。
リビングから聞こえる、普段とは違う空気。
夫の声が、柔らかい。
笑っている。
この家の空気が、変わる。
確実に。
リビングで、夫は妻の額に口づける。
夫「無理はするな」
妻「はい、あなた」
夫「一人じゃない」
低く、しかし確かな声。
妻は微笑む。
女王の顔ではなく、母になる女の顔で。
高層階の窓の外、夕陽が街を染めていた。
この家に、
新しい中心が生まれようとしていた。




