人生の転機③
朝5時。
まだ外は薄暗い。
高層階の窓の向こう、街は静まり返っている。
佐川は音を立てないようにモップをかけていた。
昨日と同じ、くたびれた茶色のカーディガン。
(奥様はまだお休み中……)
静かな朝が二日目を迎える。
そのとき――
寝室のドアが開く音。
夫が出てきた。
すでにシャツ姿。目は覚めている。
佐川はすぐに頭を下げる。
佐川「おはようございます」
夫「……」
夫は短く視線を落とす。
夫「起きるのが早いな」
佐川「本日は早めに掃除を、と」
夫「音は」
佐川「最小限にしております」
夫はそれ以上言わず、キッチンへ向かう。
佐川は一瞬、戸惑う。
(キッチン……?)
朝食はいつも妻が作る。
それがこの家の絶対だった。
佐川は遠巻きに様子を見る。
夫が冷蔵庫を開け、米を取り出す。
鍋に水を入れ、火にかける。
不慣れな手つきではない。
だが、明らかに“初めて”の動き。
佐川が思わず一歩近づく。
佐川「……何かお手伝いを」
夫「いらない」
即答。
夫「見ているな」
佐川「申し訳ございません」
夫「下がれ」
低い声。
佐川は一歩引く。
鍋の中で、米がゆっくりと崩れていく。
夫は無言で火加減を調整する。
時折、蓋を開け、かき混ぜる。
(奥様のため……)
佐川は胸の奥に、得体の知れない感情が広がるのを感じた。
やがて、白くやわらかな粥が出来上がる。
小さな器に盛る。
塩をほんの少しだけ。
夫はそれを慎重にトレイに乗せる。
夫「俺が持っていく」
佐川が口を開きかける。
佐川「……かしこまりました」
夫は寝室へ向かう。
コン、コン。
妻「……誰」
かすれた声。
夫「俺だ」
少し間があって、返事。
妻「入って」
扉を開けると、妻は枕にもたれていた。
顔色はまだ白い。
妻「……早いですね」
夫「起きた」
夫はトレイを置く。
夫「食え」
妻は器を見る。
妻「……お粥?」
夫「そうだ」
妻「佐川が?」
夫「違う」
短い沈黙。
夫「……俺だ」
妻の目がゆっくりと見開かれる。
妻「あなたが?」
夫「不満か」
妻「……ううん」
夫はスプーンを渡す。
夫「味は保証しない」
妻は一口、口に運ぶ。
やわらかい。
少しだけ不格好な粒。
だが、温かい。
二口目。
三口目。
手が止まる。
ぽたり。
涙が落ちる。
夫「……なに」
夫が眉を寄せる。
夫「まずいか」
妻は首を振る。
妻「違うの……」
声が震える。
妻「あなたが、作ってくれたって……思ったら」
夫は視線を逸らす。
夫「大袈裟だ」
妻「だって、あなたキッチンに立つことなんて」
夫「必要がなかっただけだ」
妻は涙を拭いながら、もう一口食べる。
妻「おいしいです」
夫「嘘をつくな」
妻「ほんとよ」
小さく笑う。
妻「塩、ちょっと多いけど」
夫「……」
妻「でも、おいしい」
夫は黙って彼女を見る。
その姿が、少しだけ弱く、少しだけ柔らかい。
妻は食べ終えると、深呼吸する。
妻「……今日、病院に行こうと思うの」
夫の目が鋭くなる。
夫「具合が悪いのか」
妻「念のため。ちゃんと診てもらうわ」
夫「俺が同行する」
即答。
妻は首を振る。
妻「大丈夫よ。一人で行ける」
夫「ふざけるな」
声が低くなる。
夫「まだふらつくだろう」
妻「でも、あなたは会社があるでしょう?」
夫「関係ない」
妻「ありますよ」
妻は夫の手を握る。
妻「あなたの仕事は、あなたの責任。私は、自分のことは自分でできる」
夫は数秒、黙る。
夫「歩けるのか」
妻「歩けるわ」
夫「公共交通機関は使うな」
妻「……」
夫「運転手をつける」
妻「そこまでしなくても」
夫「する」
有無を言わせない声。
夫「病院までは車で行け。診察が終わるまで待たせる」
妻「あなた……」
夫「拒否は認めない」
妻は少し困ったように笑う。
妻「過保護ね」
夫「当然だ」
夫は彼女の頬に触れる。
夫「検査結果は、すぐに連絡しろ」
妻「わかりました」
夫「無理をするな」
妻「はい」
一瞬、静かな空気。
夫は立ち上がる。
夫「着替えろ。車は手配する」
妻は頷く。
扉の外。
佐川は廊下の端で控えていた。
夫が出てくる。
夫「車を準備させろ。妻は病院へ行く」
佐川「はい」
夫「付き添いは不要だ。運転手のみ」
佐川「承知いたしました」
夫はネクタイを締め直す。
夫「何かあれば、即座に報告」
佐川「はい」
夫は一瞬、寝室の扉を見る。
その視線は、冷静で、だが揺らいでいる。
そして、低く言う。
夫「……何もないように」
命令というより、祈りだった。
静かな朝。
だがその静けさの裏で、
それぞれの感情が、確かに揺れていた。




