表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
雨のち晴れ  作者: ありり
69/311

人生の転機②

キッチンは、異様なほど静かだった。


佐川は指示どおり、胃に負担のかからないものを用意する。

薄い味付けの粥。柔らかく煮た野菜。小さく切った果物。

湯気が立つ器を見つめながら、胸の奥がざわつく。


(奥様の部屋に、入る……)


寝室の前に立つ。

白い扉は、いつもより重く感じた。


コン、コン。


妻「……何」


中から低い声。


いつもの鋭さはない。だが、冷たさは残っている。


佐川「お食事を、お持ちしました」


沈黙。


妻「……入って」


佐川は静かに扉を開ける。


カーテンは半分閉じられ、室内は薄暗い。

ベッドの中央で、妻は横向きに寝ていた。黒髪が枕に広がり、顔色は白い。


だが、その目だけは、鋭い。


妻「……遅いわね」


声は弱い。

それでも、棘は消えていない。


佐川「申し訳ございません」


佐川はトレイをサイドテーブルに置く。


妻「目障りよ」


即座に言い放たれる。


妻「置いたら出て行きなさい」


佐川「……かしこまりました」


妻「音も立てないで」


佐川は一歩下がる。


妻「覗かないで。息もしないで」


冷たい言葉。

だが、声の奥にかすかな掠れ。


佐川は視線を床に落としたまま、深く頭を下げる。


佐川「失礼いたします」


扉が閉まる。


廊下に出た瞬間、ようやく息を吐いた。


―――


部屋の中。


妻はゆっくりと上体を起こす。


妻「……最悪」


小さく呟く。


粥を一口。


薄い。


妻「……味気ないわ」


二口。


三口。


半分ほど食べたところで、スプーンが止まる。


妻「……いらない」


皿を押しやる。


果物には手をつけない。


枕に再び顔を埋める。


いつもなら、食事が気に入らなければすぐに怒鳴る。

今日は、それすら面倒だった。


―――


夕方。


通常よりも早い時間に、玄関の電子ロックが開く。


佐川は驚き、急いで出迎える。


佐川「おかえりなさいませ」


夫は無言で靴を脱ぐ。


夫「様子は」


一言。


佐川は背筋を伸ばす。


佐川「朝から横になられております。昼食は、半分ほど召し上がりました」


夫「半分?」


佐川「はい」


夫「吐き気は」


佐川「ございません。ただ、食欲がないご様子で……」


夫の視線が鋭くなる。


夫「水分は」


佐川「お茶を少し」


夫「熱は」


佐川「平熱でございます」


短い沈黙。


夫「お前は寝室に入ったか」


佐川「……はい、食事をお持ちした際に」


夫「長居はしたか」


佐川「いえ。すぐに退室いたしました」


夫は数秒、佐川を見つめる。


その視線は、責めるものではない。


だが、評価する目だ。


夫「余計なことは言ったか」


佐川「申し上げておりません」


夫「触れたか」


佐川「いいえ」


夫「……そうか」


一瞬だけ、緊張が緩む。


だが次の言葉は冷たい。


夫「今日はいい」


佐川の喉が鳴る。


夫「だが油断するな」


佐川「……はい」


夫はネクタイを緩めながら言う。


夫「夕食は用意しているな」


佐川「奥様用に軽いものを」


夫「俺の分は?」


佐川「準備しております」


夫「後で確認する」


夫は寝室へ向かう。


ノック。


妻「……誰」


夫「俺だ」


すぐに扉が開く。


妻はベッドの上で身体を起こしていた。


妻「……早いのね」


夫「様子を見に来た」


夫はベッドの縁に腰を下ろす。


夫「食事は半分だと聞いた」


妻「いらなかったの」


夫「無理でも食え」


妻「食欲がありません」


夫は妻の顎に指をかけ、顔を上げさせる。


夫「顔色が悪い」


妻「あなたのせいじゃないわ」


夫「知っている」


冷静な声。


夫「だが管理は俺の役目だ」


妻は小さく笑う。


妻「大袈裟ですね」


夫「大袈裟で結構だ」


額に手を当てる。


夫「今日は何もするな」


妻「……佐川は?」


夫「寝室以外を掃除させている」


妻「静かだったでしょう」


夫「異様にな」


夫はわずかに目を細める。


夫「お前の声がないと、この家は空洞だ」


妻は薄く目を伏せる。


妻「……そう?」


夫「だから早く治せ」


命令のようで、祈りに近い。


妻は夫の胸に額を預ける。


妻「明日には、戻ります」


夫「戻らなくていい」


妻「え?」


夫「無理に強くなるな」


一瞬だけ、空気が止まる。


だが次の言葉は冷たい。


夫「だが、倒れるのは許さない」


妻は小さく笑う。


妻「相変わらず、厳しいですね」


夫「当然だ」


夫はゆっくりと妻を抱き寄せる。


寝室の外では、佐川が床を磨く音が微かに響いていた。


静かな家。


だがその静けさは、支配が消えた証ではない。


ただ、中心が横たわっているだけ。


そして夫は、確実にその中心を守っている。


冷酷なまでに。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ