人生の転機②
キッチンは、異様なほど静かだった。
佐川は指示どおり、胃に負担のかからないものを用意する。
薄い味付けの粥。柔らかく煮た野菜。小さく切った果物。
湯気が立つ器を見つめながら、胸の奥がざわつく。
(奥様の部屋に、入る……)
寝室の前に立つ。
白い扉は、いつもより重く感じた。
コン、コン。
妻「……何」
中から低い声。
いつもの鋭さはない。だが、冷たさは残っている。
佐川「お食事を、お持ちしました」
沈黙。
妻「……入って」
佐川は静かに扉を開ける。
カーテンは半分閉じられ、室内は薄暗い。
ベッドの中央で、妻は横向きに寝ていた。黒髪が枕に広がり、顔色は白い。
だが、その目だけは、鋭い。
妻「……遅いわね」
声は弱い。
それでも、棘は消えていない。
佐川「申し訳ございません」
佐川はトレイをサイドテーブルに置く。
妻「目障りよ」
即座に言い放たれる。
妻「置いたら出て行きなさい」
佐川「……かしこまりました」
妻「音も立てないで」
佐川は一歩下がる。
妻「覗かないで。息もしないで」
冷たい言葉。
だが、声の奥にかすかな掠れ。
佐川は視線を床に落としたまま、深く頭を下げる。
佐川「失礼いたします」
扉が閉まる。
廊下に出た瞬間、ようやく息を吐いた。
―――
部屋の中。
妻はゆっくりと上体を起こす。
妻「……最悪」
小さく呟く。
粥を一口。
薄い。
妻「……味気ないわ」
二口。
三口。
半分ほど食べたところで、スプーンが止まる。
妻「……いらない」
皿を押しやる。
果物には手をつけない。
枕に再び顔を埋める。
いつもなら、食事が気に入らなければすぐに怒鳴る。
今日は、それすら面倒だった。
―――
夕方。
通常よりも早い時間に、玄関の電子ロックが開く。
佐川は驚き、急いで出迎える。
佐川「おかえりなさいませ」
夫は無言で靴を脱ぐ。
夫「様子は」
一言。
佐川は背筋を伸ばす。
佐川「朝から横になられております。昼食は、半分ほど召し上がりました」
夫「半分?」
佐川「はい」
夫「吐き気は」
佐川「ございません。ただ、食欲がないご様子で……」
夫の視線が鋭くなる。
夫「水分は」
佐川「お茶を少し」
夫「熱は」
佐川「平熱でございます」
短い沈黙。
夫「お前は寝室に入ったか」
佐川「……はい、食事をお持ちした際に」
夫「長居はしたか」
佐川「いえ。すぐに退室いたしました」
夫は数秒、佐川を見つめる。
その視線は、責めるものではない。
だが、評価する目だ。
夫「余計なことは言ったか」
佐川「申し上げておりません」
夫「触れたか」
佐川「いいえ」
夫「……そうか」
一瞬だけ、緊張が緩む。
だが次の言葉は冷たい。
夫「今日はいい」
佐川の喉が鳴る。
夫「だが油断するな」
佐川「……はい」
夫はネクタイを緩めながら言う。
夫「夕食は用意しているな」
佐川「奥様用に軽いものを」
夫「俺の分は?」
佐川「準備しております」
夫「後で確認する」
夫は寝室へ向かう。
ノック。
妻「……誰」
夫「俺だ」
すぐに扉が開く。
妻はベッドの上で身体を起こしていた。
妻「……早いのね」
夫「様子を見に来た」
夫はベッドの縁に腰を下ろす。
夫「食事は半分だと聞いた」
妻「いらなかったの」
夫「無理でも食え」
妻「食欲がありません」
夫は妻の顎に指をかけ、顔を上げさせる。
夫「顔色が悪い」
妻「あなたのせいじゃないわ」
夫「知っている」
冷静な声。
夫「だが管理は俺の役目だ」
妻は小さく笑う。
妻「大袈裟ですね」
夫「大袈裟で結構だ」
額に手を当てる。
夫「今日は何もするな」
妻「……佐川は?」
夫「寝室以外を掃除させている」
妻「静かだったでしょう」
夫「異様にな」
夫はわずかに目を細める。
夫「お前の声がないと、この家は空洞だ」
妻は薄く目を伏せる。
妻「……そう?」
夫「だから早く治せ」
命令のようで、祈りに近い。
妻は夫の胸に額を預ける。
妻「明日には、戻ります」
夫「戻らなくていい」
妻「え?」
夫「無理に強くなるな」
一瞬だけ、空気が止まる。
だが次の言葉は冷たい。
夫「だが、倒れるのは許さない」
妻は小さく笑う。
妻「相変わらず、厳しいですね」
夫「当然だ」
夫はゆっくりと妻を抱き寄せる。
寝室の外では、佐川が床を磨く音が微かに響いていた。
静かな家。
だがその静けさは、支配が消えた証ではない。
ただ、中心が横たわっているだけ。
そして夫は、確実にその中心を守っている。
冷酷なまでに。




