シャッター音と雑巾の音①
タワマン最上階のリビング。
大きな窓の向こうには、夕暮れの都会の光が滲んでいる。
ガラス越しに広がる街並みは、まるで別世界のように静かだった。
床では、佐川が黙々と雑巾を動かしている。
茶色のカーディガンは相変わらず毛玉だらけで、袖口は少しほつれている。前のボタンはきっちりと全部留められ、白いブラウスの襟だけがのぞいている。
妻「……そこ、拭き残しがあるわよ。しっかり磨いて」
ソファから冷たい声が飛ぶ。
佐川「申し訳ございません、奥様」
佐川は額に汗を滲ませながら、すぐに拭き直す。
視線は決して上げない。
そのすぐ後ろのソファでは――
夫がゆったりと腰掛け、妻がその隣に寄り添っていた。
妻は深い赤のワンピース。柔らかな生地がソファに広がる。
夫の手が、そっと妻の顎に触れる。
夫「……何を見てる?」
低く、少し笑いを含んだ声。
妻はスマホを差し出す。
妻「猫カフェの写真よ。ほら、これ。あなた、すごく優しい顔してる」
画面には、夫の膝の上で丸くなる猫と、それを撫でる夫の横顔。
夫は鼻で小さく笑う。
夫「猫が懐いただけだ」
妻「ふふふ」
妻はスクロールする。
猫を抱く夫の隣で、自分を見つめる夫の写真。
妻「……ほら。この目」
夫は少し黙る。
夫「そんなに欲しいのか?」
妻「何がです?」
夫「俺の写真」
妻は一瞬、視線を落とし、それからまっすぐ見上げる。
妻「欲しいです。もっと欲しい」
静かな空気。
床を擦る音だけが、やけに響く。
妻「だって……あなた、普段あまり写真撮らせてくれないじゃない」
夫「必要ない」
妻「私には必要です」
妻の声は柔らかいが、真剣だった。
妻「あなたと一緒にいる時間を、形に残したいの。もっと一緒に撮りたい。二人の写真、増やしたいの」
夫はじっと見つめる。
夫「そんなに不安か?」
妻「……少しは」
小さく笑う妻。
妻「あなた、モテるもの」
夫の口元がわずかに上がる。
夫「またその話か」
妻「だって事実でしょ。猫カフェでも、店員さん、あなたにばかり話しかけてたし」
夫「お前が嫉妬してる顔は面白かったな」
妻「……ひどい」
だが妻は嬉しそうだ。
夫はスマホを取り上げる。
夫「じゃあ今撮るか?」
妻「え?」
夫「写真。今ここで」
妻の目がぱっと明るくなる。
妻「本当に?」
夫「ああ。どうせなら、今の顔も残しておけ」
夫は腕を回し、妻を引き寄せる。
妻は自然と身体を預ける。
その後ろで、佐川の雑巾を動かす手が一瞬止まる。
妻「佐川」
冷たい声。
佐川「は、はい」
妻「視線を上げないで。仕事に集中しなさい」
佐川「……申し訳ございません」
再び床を擦る音。
夫はスマホを構える。
夫「ほら、笑え」
妻「あなたこそ」
夫「俺はいい」
妻「ダメ。私だけ笑うのはずるいです」
夫「注文が多いな」
妻「だって、あなたの笑顔が欲しいの」
一瞬、静寂。
夫はわずかに息を吐き、ほんの少しだけ柔らかい表情になる。
シャッター音。
夫「……撮れた」
妻は画面を覗き込み、頬を染める。
妻「素敵……」
夫「そんなにか?」
妻「うん。これ、待ち受けにする」
夫「勝手にしろ」
妻はくすくす笑う。
妻「次は猫カフェ、また行きましょう」
夫「もう飽きただろ」
妻「飽きないわ。今度はもっと一緒に撮るの。二人で猫抱いて」
夫「欲張りだな」
妻「あなたとなら、いくらでも」
その言葉に、夫はほんのわずかに目を細める。
夫「……なら、次は旅行だ」
妻「旅行?」
夫「誕生日、近いだろ」
妻は目を見開く。
妻「ふふふ」
佐川の手が、また止まる。
夫「テーマパーク行って泊まるんだろ」
妻「……ええ、楽しみです」
夫「写真もいくらでも撮らせてやる」
妻は夫の胸に顔を埋める。
妻「本当?嬉しい……」
夫「泣くな」
妻「泣いてない」
二人は静かに笑う。
その足元で、佐川は膝をついたまま、床を磨き続ける。
茶色のカーディガンの毛玉は、夕暮れの光で余計に目立つ。
汗が顎を伝い、床に落ちる。
スマホの中には、幸せそうな二人の写真が増えていく。
現実の床には、拭き跡が残らないよう、佐川の手が何度も往復する。
妻「佐川」
佐川「はい」
妻「今日はこの後、浴室ももう一度掃除して。念入りに」
佐川「かしこまりました」
妻「それと、カーディガン。みっともないからそろそろ洗っておきなさい。毛玉、目障りよ。もちろん手洗いで。」
佐川「……はい」
夫はそれを黙って聞いている。
だが妻の肩を抱く腕は、少し強くなっていた。
窓の外、夜景が完全に灯る。
夫婦の距離は、確かに以前より近い。
写真の枚数も、言葉の数も増えている。
ただ――
床を磨く音だけは、変わらずリビングに響き続けていた。




