夫婦の未来⑩
朝五時。
まだ夜の色がわずかに残る空の下、タワマン最上階は静まり返っている。
リビングの床に膝をつき、佐川はいつものように雑巾を滑らせていた。
往復、往復。無駄のない動き。
磨き上げられた大理石に、薄い朝の光が映る。
その頃、寝室の扉が静かに開く。
妻が出てきた。
髪は整い、淡いワンピースにエプロン。
顔色も、目元も、何一つ乱れていない。
佐川「おはようございます、奥様」
佐川はすぐに深く頭を下げる。
妻「......さっさと磨きなさい」
いつもの淡々とした声。
佐川「はい、奥様」
感情は読み取れない。
妻はいつものとおりそのままキッチンへ向かう。
冷蔵庫を開け、卵を取り出し、パンをスライスする。
フライパンに火が入り、バターが溶ける音が静かに響く。
動きは滑らかで、迷いがない。
妻「佐川」
佐川「はい、奥様」
妻「朝食後、キッチンを念入りに掃除して」
佐川「承知いたしました」
妻「全ての窓も磨いておきなさい。曇りがある場合全てやり直しよ」
「はい」
淡々とした指示。
それはいつもの妻の口調。
間もなく、寝室の奥から足音がする。
夫が起きた。
ガウン姿でリビングに現れる。
夫「早いな」
低い声。
妻は振り返り、柔らかく微笑む。
妻「おはようございます。もう少しで朝食ができあがります」
夫「そうか」
短いやり取り。
妻「朝食、お持ちします」
夫「頼む」
佐川はコーヒーを淹れ、テーブルに並べると、一礼する。
夫「朝食中の給仕は不要だ。他の部屋を進めろ」
夫の指示。
佐川「はい、旦那様」
佐川は静かにダイニングを離れ、廊下へ向かう。
客室、書斎、廊下の鏡。
順番に磨いていく。
遠くから、カトラリーの小さな音と、落ち着いた夫婦の会話が聞こえる。
妻「今日は帰りはどうなりそうですか?」
夫「なるべく早く帰る」
妻「わかったわ」
夫「連絡する」
穏やかな朝の会話。
過不足のない距離。
やがて、いつもの時間。
玄関へと向かう足音。
佐川はすぐに作業を止め、エントランスへ出る。
妻は完璧な微笑を浮かべて立っている。
夫はスーツ姿。
夫「行ってくる」
妻「お気をつけて」
柔らかな声。
佐川は深く跪く。
佐川「行ってらっしゃいませ、旦那様」
扉が閉まる。
静寂。
数秒の沈黙。
妻の背筋がわずかに緩む。
そして振り返る。
その目はもう、穏やかな妻ではない。
妻「佐川」
佐川「はい、奥様」
妻「さっさとキッチンを掃除しなさい。」
佐川「承知いたしました、奥様」
妻「汚れが少しでも残っていたら承知しないから」
佐川「はい」
妻「その前に喉が渇いたわ。冷たいお茶、持ってきて」
佐川「かしこまりました」
指示は次々と飛ぶ。
声は冷静で、隙がない。
妻「相変わらず役立たずね」
佐川の手がわずかに止まる。
佐川「申し訳ございません」
妻「言い訳は不要。結果を出しなさい」
佐川「はい、奥様」
妻はリビングに戻りソファーでくつろぎながら、夕食のメニューを考える
妻「夕食の買い出しに行くわ。お前もついてきなさい」
佐川「承知いたしました」
妻「今日は完璧に整えるわ」
その言葉には、静かな圧がある。
佐川は深く頭を下げる。
佐川「はい、奥様」
朝の穏やかな空気は消え、家は再び厳格な秩序に包まれる。
妻は、いつもの妻だった。
凛として、冷静で、冷酷なまでに隙がない。
タワマン最上階の一日は、
何事もなかったかのように、動き出していた。




