あれから③
結が家を出てから、少し時間が経った。
四月。
北海道へ向かう空港で、結は最後まで明るかった。
「パパ、ちゃんとご飯食べてね」
「わかってる」
「佐川に頼んであるから」
「余計だ」
そんなやり取りをして、手を振って別れた。
飛行機が飛び立つのを見た時、胸の奥にぽっかり空いたものを感じた。
だが、寂しさよりも先に浮かんだのは、
「……立派になったな」
という気持ちだった。
家に戻ると、佐川が静かに荷物をまとめていた。
結の自立を見届けて、佐川もこの家を出る。
それが自然な流れだった。
俺は言った。
「佐川」
「はい、旦那様」
「もう俺の世話はいい」
佐川は黙って聞いている。
「相馬のところへ行け」
「……」
少し沈黙があった。
そして佐川は穏やかに言った。
「この家は出ます」
「ですが」
少し言葉を選ぶ。
「通いで、週に数日」
「旦那様を支えさせていただけませんか」
俺は苦笑した。
「……悪いだろ」
「いいえ」
佐川は静かに首を振った。
「私がそうしたいのです」
少し考えて、俺は頷いた。
「……じゃあ」
「甘える」
佐川は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
それから会社の方も変えた。
ある日、社長室で相馬に言った。
「相馬」
「はい」
「社長をやれ」
相馬は一瞬、本当に固まった。
「……社長」
「冗談ですよね」
「いや」
俺は続けた。
「俺は会長になる」
「少しゆっくりやる」
相馬はすぐに言った。
「できません」
珍しくはっきりと反発した。
「まだ早すぎます」
「社長が——」
「相馬」
俺は言った。
「お前ならできる、大丈夫だ」
相馬はしばらく黙っていた。
長い沈黙のあと。
「……わかりました」
渋い顔で言った。
「引き受けます」
そして小さく付け加えた。
「納得はしていませんが」
俺は笑った。
「そのうち慣れる」
それから。
俺は猫を飼い始めた。
リビングのソファの上で、そいつは堂々と寝ている。
「おい」
声をかける。
猫はちらっとこっちを見て、また寝る。
「……俺の話し相手だ」
と言っても、聞いているのかどうかはわからない。
それでも。
誰もいないよりは、ずっといい。
この家は広い。
俺と猫でも、広すぎる。
ソファに座りながら、部屋を見渡す。
結が小さかった頃。
妻がいた頃。
笑い声。
カレーの匂い。
全部ここに残っている。
だから。
ここにいたい気持ちは強い。
だが、最近思う。
「……引っ越すのも」
悪くない。
新しい場所。
新しい生活。
人生には節目がある。
妻と出会った日。
結が生まれた日。
そして。
結が家を出た日。
今はきっと、次の節目なんだろう。
猫が伸びをした。
「ニャー」
俺は立ち上がり、窓の外を見る。
空はよく晴れている。
「……お前」
写真に向かって言う。
棚の上の妻の写真。
「結、立派になったぞ」
北海道で頑張っている。
俺はもう心配していない。
あいつなら大丈夫だ。
そして俺も。
「まだ」
生きていく。
ゆっくりでも。
前を向いて。
猫を抱き上げる。
「行くか」
新しい人生へ。
静かな部屋に、柔らかな光が差し込んでいた。
それは、これから続く日々を照らすようだった。




