一人の夜
夜。
仕事を終えた夫が玄関の扉を開ける。
「ただいま」
すぐに足音。
「お帰りなさいませ、旦那様」
佐川が出迎える。
夫はネクタイを少し緩めながら言う。
「まだ起きてたのか」
「はい」
佐川が言う。
「軽食をご用意しております。温めればすぐ召し上がれます」
夫は靴を脱ぎながら言う。
「悪いな」
「いえ」
夫が続ける。
「もう遅い。後は自分でやる」
佐川が少し躊躇する。
「ですが——」
夫が軽く手を振る。
「いい、寝ろ」
佐川が静かに頭を下げる。
「……かしこまりました」
「おやすみなさいませ」
「ああ、おやすみ」
佐川が下がる。
リビングに静かな夜が戻る。
夫はキッチンで軽く温め、皿をテーブルに運ぶ。
一人の食事。
静かな音。
フォークが皿に触れる音だけ。
少し食べて、ふと手が止まる。
「……」
視線の先。
棚の上の写真。
妻の写真。
夫はそれを見ながら小さく息を吐く。
「……結」
小さく呟く。
修学旅行でいない家は、やはり静かだった。
「あと数年か」
結は今、中三。
高校。
大学。
その先。
「……家を出るだろうな」
自然なことだ。
成長すれば。
自分の人生を歩く。
それは喜ばしいことだ。
わかっている。
けれど。
夫は椅子にもたれる。
「その頃には」
静かに言う。
「佐川も出るだろう」
相馬と。
きっとそうなる。
それが一番自然だ。
夫は苦笑する。
「……そうなると」
広いリビングを見る。
「俺、一人か」
仕事はある。
会社もある。
忙しさもある。
それでも。
夜。
家に帰れば。
「……一人だな」
妻の写真を見る。
十年前と同じ笑顔。
「耐えられるか」
独り言のように言う。
「俺」
十年前。
一人になった夜を思い出す。
あの時の絶望。
胸の奥が少しだけ痛む。
夫は少し考える。
そして、ぽつりと呟く。
「……猫でも」
写真を見ながら言う。
「飼うかな」
小さく笑う。
「お前、猫好きだったよな」
静かな夜。
夫の独り言だけが、リビングに溶けていった。




