結の二泊三日の修学旅行② 〜佐川の胸の内〜
玄関の扉が閉まる。
「いってらっしゃいませ」
そう言って見送ったあと、私はしばらく静かな玄関に立っていた。
エレベーターの音が遠くで鳴る。
やがて完全な静けさが戻る。
「……」
私はゆっくり息を吐いた。
旦那様の背中を見送るたび、思うことがある。
「本当に……」
小さく呟く。
「穏やかになられました」
結お嬢様が生まれてから、旦那様は変わった。
それまでも冷静な方だったが、どこか近寄りがたい雰囲気があった。
仕事では誰もが恐れる社長。
けれど。
結お嬢様が生まれてから、少しずつ柔らかくなられた。
初めて抱き上げた日。
恐る恐る腕に抱きながら、戸惑っていた旦那様。
それを奥様が笑って見ていた。
——大丈夫ですよ。
——そのうち慣れるわ。
あの光景は今でも覚えている。
「……ですが」
私はリビングへ歩きながら思う。
奥様が亡くなられてからの十年。
旦那様はまた少し変わった。
一時は本当に危うかった。
あの頃の旦那様は、今思い出しても胸が苦しくなる。
仕事に没頭しながらも、心はどこか遠くにあった。
けれど。
最近の旦那様は——
「……さらに穏やかになられました」
それはきっと。
結お嬢様のおかげ。
昨日も。
二人でカレーを作っていた。
並んで台所に立つ姿は、どこか温かくて。
奥様が見たらきっと笑うだろう。
そしてもう一つ。
私は思う。
「奥様のお手紙も……」
相馬さんから聞いた。
十年前に預かった手紙を、ついに旦那様に渡したと。
それも、きっと大きかったのだろう。
奥様の想い。
十年越しの言葉。
旦那様はそれを受け止めて、前を向こうとしている。
「……本当に」
私は窓の外を見る。
朝の光が街を照らしている。
「奥様は、すごい方です」
十年経っても。
旦那様の心を支え続けている。
「ですが」
私は小さく微笑む。
「結お嬢様も負けておりません」
あの子は強い。
優しくて、まっすぐで。
そして。
「旦那様も」
強くなられた。
悲しみを抱えながらも、前に進んでいる。
「……私は」
静かに思う。
この家を守る。
旦那様を支え。
結お嬢様を見守る。
それが今の自分の役目。
そしていつか——
結お嬢様が大人になり。
旦那様が本当に安心できる日が来たら。
その時は。
「……」
少しだけ頬を赤らめる。
「相馬さんと」
小さく笑う。
その未来も、きっと悪くない。
キッチンに向かう。
静かな家に、また一日が始まろうとしていた。




