過去からラブレター⑤ 〜夫の胸の内〜
バーを出た後の夜。
街の灯りが路面に滲んでいる。
俺は車の後部座席で、静かに窓の外を見ていた。
ポケットの中には、折りたたまれた手紙。
妻の文字。
十年前の想い。
指先でそれに触れる。
「……」
胸の奥がまだ温かく、そして少し痛い。
(十年後の俺を心配してたのか)
思わず小さく息が漏れる。
笑っているか。
身体を大切にしているか。
結と仲良くしているか。
まるで——
今も隣にいるような言葉。
「……あいつ」
少しだけ笑う。
最後の一文。
再婚していないようですね。ありがとう。
あの一行が胸に残っている。
(ずるいな)
そう思う。
自分のことは忘れていいと言いながら。
本当は忘れてほしくないと書く。
そんな言い方。
いかにも妻らしい。
優しくて、
正直で、
少しだけわがままで。
「……ちゃんと見抜いてる」
十年経っても。
自分がどう生きるか。
あの人はわかっていた。
(俺が誰かを愛せると思ってたのか?)
苦笑がこぼれる。
答えは十年前から変わっていない。
あの日。
病室で。
手を握って言った言葉。
唯一愛する女性はお前だけだ。
あれは、その場の言葉じゃない。
誓いだった。
そして今も。
同じ気持ちだ。
「……でもな」
窓の外を見る。
街は普通に動いている。
人が歩き。
車が走り。
夜が流れている。
世界は止まらない。
そして自分も。
止まってはいない。
結が笑っている。
獣医になりたいと言った。
あの目は、前を向いていた。
「……あいつ、強いな」
母を忘れるのではなく。
母を連れて歩いている。
それを見て、思った。
(俺もそうする)
忘れない。
でも。
立ち止まり続けるわけでもない。
妻は十年後の自分を心配していた。
なら。
その心配には、応えたい。
「……見てろよ」
心の中で言う。
笑っているか、と聞かれた。
なら。
これからは、もう少し笑う。
身体を大事にしているか、と聞かれた。
なら。
少しは無茶を減らす。
結と仲良くしているか、と聞かれた。
それは——
胸を張って言える。
「……いい娘だろ」
静かな声。
車は自宅へ向かって走る。
俺はポケットから手紙を取り出す。
そしてもう一度、そっと折り直す。
大切なものを扱うように。
「……愛してる」
声には出さない。
けれど。
その気持ちは十年前と何一つ変わっていなかった。
ただ一つ違うのは。
その愛を胸に抱いたまま、
前を向いて歩けるようになったことだった。




