思い出のクリームソーダ⑤ 〜夫の気持ち〜
俺はフォークを静かに置いた。
目の前には三つのクリームソーダ。
結の分。
俺の分。
そして——
妻の分。
緑色のソーダの泡が、ゆっくりと上がっては消えていく。
「……」
胸の奥が、静かに揺れていた。
(まさか……)
結が、ここまで考えていたとは思わなかった。
三つ頼んだ理由。
この席を選んだ理由。
そして——
あの言葉。
——ママ、お誕生日おめでとう。
その声が、まだ耳に残っている。
「……あいつ」
思わず小さく息が漏れる。
結は覚えていないと思っていた。
四歳までの記憶。
ほとんど残っていないはずだと。
だが違った。
ちゃんと覚えていた。
あのレストランも。
あの飲み物も。
そして——
母の誕生日を祝う気持ちも。
「……強いな」
結は。
俺より。
十年前。
あの日。
棺の前で泣き崩れた自分。
何も出来なかった自分。
世界が終わったと思った。
だが。
この子は。
ちゃんと前を向いている。
母を忘れるのではなく。
母を連れて、前に進んでいる。
(……お前に似たな)
妻の顔が浮かぶ。
あの穏やかな笑顔。
人の心をそっと包むような優しさ。
きっと妻なら。
今の結を見て、笑う。
——大きくなりましたね。
そう言うだろう。
俺は静かにクリームソーダを見つめる。
「……誕生日」
本当なら。
今日も家で祝っていたはずだ。
ケーキを買って。
結が騒いで。
妻が笑って。
そんな未来だったはずだ。
けれど。
今ここにあるのは。
別の形の誕生日。
娘が用意した三つのグラス。
そして。
静かな祝福。
夫はゆっくりグラスに手を伸ばす。
冷たい。
一口飲む。
甘い。
少し懐かしい味。
「……なあ」
心の中で呟く。
(見てるか)
今日のことを。
結のことを。
この店を。
(いい娘だろ)
少しだけ口元が緩む。
(お前の娘だ)
俺はそっと視線を上げる。
向かいの席で、結がハンバーグを食べている。
何も言わず。
ただ普通に。
それが、なぜか嬉しかった。
「……ありがとう」
声には出さない。
それは妻へ。
そして——
この席を用意した娘へ。
俺はもう一度、クリームソーダを口にした。




