十年後の春⑦ 〜結の胸の内〜
部屋の灯りを消し、ベッドに入る。
窓の外には春の夜。
遠くで車の音がかすかに聞こえる。
私は天井を見つめながら、静かに息をついた。
「……ママ」
母の記憶は、ほとんどない。
四歳まで。
ぼんやりとしか思い出せない。
写真を見て、そうだったのかなと思うくらい。
けれど——
ひとつだけ。
ひとつだけ、はっきり覚えている記憶がある。
「クリームソーダ……」
デパートのレストラン。
高い天井。
ガラスのコップ。
緑色のソーダの上に、白いアイス。
そして赤いさくらんぼ。
母がストローを差しながら笑って言った。
——結、冷たいからゆっくり飲んでね。
その声。
その顔。
あの時の微笑みだけは、今でも鮮明に思い出せる。
「……忘れないと思う」
きっとこれからも。
何十年経っても。
あの笑顔だけは消えない。
結は寝返りを打つ。
そして、もう一つの記憶が浮かぶ。
白い部屋。
静かな空気。
棺の前。
父。
「……」
父は普段、とても冷静だ。
怒ることもほとんどない。
感情を大きく出すこともない。
小さい頃から、そうだった。
けれど。
あの日だけは違った。
棺の前で。
父は——
泣き崩れていた。
声を押し殺すように。
肩を震わせて。
あんな父を見たのは、後にも先にもあの時だけだ。
「パパ……」
結は小さく呟く。
父は今も母を愛している。
それは、わかる。
母の写真。
母の誕生日。
ふとした時の、あの目。
全部でわかる。
「……でも」
結は少しだけ笑う。
父は忙しい。
会社の社長。
いつも遅くまで働いている。
それでも。
朝は必ず声をかけてくれる。
「気をつけて行け」
そう言ってくれる。
テストの前は、
「寝ろ」
と言ってくる。
部活の大会の日は、
「結果より怪我するな」
と言う。
不器用だけど。
ちゃんと気にかけてくれている。
「……今度の休み」
私は天井を見ながら考える。
父は来月、休みを取ると言っていた。
母の誕生日の日。
「デパート行こうかな」
あのデパート。
母とクリームソーダを飲んだ場所。
「今度、パパを誘ってみよう」
父はたぶん最初は驚く。
でもきっと断らない。
二人で座って。
クリームソーダを飲みながら。
母の話をしよう。
「ママ、こんな人だったんでしょ?」
そう聞いてみよう。
父の知っている母を、聞きたい。
そして——
結は少しだけ胸を張る。
「私の話も」
伝えたい。
まだちゃんと言っていない。
でも最近、はっきりしてきた。
動物が好き。
小さい頃からずっと。
怪我した猫を見つけたとき、
助けてあげたいと思った。
「……獣医」
なりたい。
ちゃんと。
本気で。
「パパ、びっくりするかな」
結は少し笑う。
きっと少し驚く。
でも。
きっと応援してくれる。
そんな気がする。
「今度言おう」
デパートで。
クリームソーダを飲みながら。
母の思い出を話して。
そのあとで。
「私、獣医になりたい」
そう言おう。
結は静かに目を閉じる。
春の夜の静けさの中で。
三人だった家族の記憶と、
これからの未来を胸に抱きながら。




