十年後の春⑥ 〜佐川の胸の内〜
結お嬢様の部屋の灯りが廊下の奥で消える。
しばらくして、静かな足音。
「……おやすみなさいませ」
小さく呟きながら、私は廊下を見送った。
結お嬢様はもう眠りについたのだろう。
リビングに戻ると、そこには夜の静けさが広がっている。
旦那様も書斎に入られたようだ。
私はキッチンで湯を沸かし、静かにお茶を淹れる。
湯気がゆらりと立ちのぼる。
「……」
湯呑みを手に取りながら、ふと考える。
借金は、もうない。
二億円。
数字に追われていた日々。
それが、もう終わっている。
「……不思議ですね」
思わず独り言が漏れる。
本来なら——
まだ終わっていないはずだった。
二十年以上。
それくらいはかかると思っていた。
それが。
「十五年もかかりませんでした」
理由はわかっている。
奥様。
あの方が、そっと旦那様に進言してくださった。
——佐川の給料、もう少し上げてあげてください。
直接は言われなかった。
けれど後から知った。
奥様らしい、やさしいやり方だった。
「……奥様」
自然と口から出る。
あの穏やかな微笑み。
そして、もう一人。
相馬さん。
「……あの方も」
ある日、封筒を差し出された。
「気持ちです」
そう言っただけだった。
中身を見て、驚いた。
「こんな……」
「返済に使ってください」
「ですが」
「貸しではありません」
相馬は淡々とした顔で言った。
「気持ちです」
それ以上、何も言わせないような言い方だった。
「……本当に」
佐川は小さく笑う。
「不器用な方です」
奥様も。
相馬さんも。
優しい人ほど、そういうことをさりげなくする。
その結果。
二十年以上かかるはずだった返済は、
十五年もかからず終わった。
湯呑みを両手で包む。
温かい。
「借金は、もうありません」
だから本来なら——
自由になってもいい。
ここを出て、
自分の人生を生きてもいい。
だが。
「……それは違います」
静かに首を振る。
借金がなくなったから終わり、ではない。
御恩は、別だ。
旦那様と奥様は人生を救ってくれた。
家族のように扱ってくれた。
そして。
「結お嬢様」
あの小さかった子。
初めて会ったときは、まだ赤ん坊だった。
泣き声。
笑顔。
初めて歩いた日。
全部覚えている。
今では中学三年生。
ラケットバッグを背負い、
朝練に向かう姿。
「……大きくなられました」
奥様に似ている。
笑い方も。
ふとした仕草も。
だから。
佐川は静かに決めている。
「私は」
湯呑みを置く。
「結お嬢様が独り立ちされるまでは」
ここにいる。
旦那様のそばで。
結お嬢様を見守りながら。
「お仕えいたします」
それが恩返し。
それが、自分の役目。
そして——
「その頃には」
少しだけ微笑む。
きっと結お嬢様は大人になり、
旦那様も少し肩の力が抜けている。
その時。
もしかすると。
「……相馬さんと」
そこまで考えて、佐川は首を振った。
「いけませんね」
今はまだ、その時ではない。
今は。
守るべき家がある。
支えるべき人がいる。
佐川は静かに立ち上がる。
廊下の灯りを落とし、
最後に玄関を確認する。
「……おやすみなさいませ」
誰に向けた言葉でもない。
けれど。
この家のすべてに向けた言葉だった。




